だがなにも、それほどまで、愚父賢息のひらきがあったわけでは決してない。むしろ、清盛の本質には、その風貌
もたすけて、はなはだ渺びょう
としたところがあり、容易に他から意中の機関からくり
をのぞかせないところもあった。そうかと思うと、赤裸せきら
で、明けっ放し過ぎるような点もあり、その両面を知ると、人はなおさら 「わからないお人よ」 とよく言うのである。しかし、清盛の心の構造は、そも両面の大広間のほか、なお幾つもの小部屋や開かずの間があったか知れない。それは清盛自身さえまだ全部は分かりきっていないのである。ただ彼も年とるままに、やがてその年齢が、つぎつぎに、心の小間や明けずの間を開けて来ることとは思われるが
── こういう父清盛を、二十二の白面はくめん
重盛が、たしなめたとは思われない。まして、一門浮沈の場合、この一児の計によって、思慮を変えたり、動かされたりしているような親で、どうして後の太政だじょう
入道にゅうどう 相国しょうこく
などが存在しよう。あの六波羅風俗だの平氏文化の一時代があり得よう。 ここにただ例外はある。 齢よわい
八十に近い筑後家貞だ。家貞には、肚はら
を見透みす かされても、当然と、清盛も思うであろう。──
その主君の父子と、炉に対して、静に背を曲げてすわると、彼はぼそぼそと、ひとり言ごと
のように言っていた。 「都の内に、いつかは、来るべきことが来たまでのことでおざる。先ほどのお言葉そのままを、殿の御真意とは、じじも思いませぬ。帰洛きらく
の工夫くふう 、いかがせばやの御苦心と存じまする。ただ、てまえの才覚にて、弓甲冑など、御人数の物は、いつも荷駄にだ
につけて参りましたゆえ、その儀は、お気づかいなされますな」 「じじ、それを持っていたか」 「武者奉公の慣なら
い。思えば、これも亡き大殿おおとの
(忠盛) のお躾しつけ
でござりました」 「とうぞ」 父がひざを打った容子ようす
を、重盛は、面おもて をほてらして、じっと見ていた。 「では父君にはやはり都の乱へむかって、お急ぎのお覚悟ですか」 「言うまでもないわさ。武者の道は一筋だ。天が我に課し給う業わざ
かも知れぬ。難所なんしょ 切所せっしょ
も、越ゆるこそ、熊野の旅よ。いや人間の旅路だよ重盛。── そちもはや一人並みの男。ここで自分を試すがよい」 「はい、この時にこそと、自分にも誓っています。・・・・が、池ノ祖母ばば
様さま や母君や、留守の者たちは、どうなっておりますやら」 「案じられることではあるよ。それあるがため、清盛の都返りも、一しお難事なのだ。・・・・そうそう田辺の宿まで、夜のうちに、使者を走らせたいが、たれぞ、間違いない男はいるか」 「半蔵がよろしゅうございましょう。が、御用むきは」 「熊野別当湛増たんぞう
が、田辺におるゆえ、それに書状して、途々みちみち
の備えに、味方を少し借ろうと思う」 「大事な使者。わたくしが参りましょうか」 「いやいや、さまで弱味を示しては、かえって悪かろう。半蔵でよい」 清盛は、一書をしたためて、筑後にあずけた。 筑後家貞は、郎党の半蔵を田辺へ立たせた。その後で、宵の老禰宜ねぎ
に会い、にわかに、朝廷の御用で都へ帰らなければならなくなったと告げて、 「夜明け前に、ここをお立ち出でと仰せられるゆえ、せわしないことで、おそれ入るが、社前御祈願のおしたくなど、暗いうちに、お願いしたいが」 と、申し入れていた。 神職たちはまだだれも、都の変など、気ぶりにも覚らなかった。しかし、切目きりべ
王子おうじ の境内は、夜すがら篝火かがりび
や炊かし ぎの火で赤かった。そしてまだ小鳥すら啼な
かないうちに、社やしろ の庭には、力づよい拍手かしわで
の音が、こだましていた。 |