「父君、おくたびれでしょう」 「オ・・・・重盛か。じじは」 「筑後は、後からすぐ参ります」 「ここではm三名きりでいたいな」 「筑後も、そのつもりで、侍どもを宿舎に憩
わせ、無事を見てから、参るつもりと思われまするが」 「供の侍どものの気色けしき
はどうだ」 「一時は色を失いましたが、観念したか、やや落着いて見えまする」 「脱ぬ
け落ちする者があったら、逃がしておけよ。強し
いて見張るな」 赤い袴はかま
をはいた巫女みこ 、女童めわらべ
たちが、酒飯を運んで来た。神官、老ろう
禰宜ねぎ などが、あいさつに来る。清盛は、かた苦しい辞儀を自分から崩して、 「紀伊の国は、暖かと聞いていたが、夜の海鳴りは、さすが冬、寒々さむざむ
するのう」 などとさりげなく ── 「酒飯は、炉に親しみながら、われら同志、勝手にいただきたい。ちと、内談もあれば、構うてくれぬ方がありがたいが」 と、あっさり人びとを遠ざけた。 父子二人、やがて後から、じじの筑後だけが加わって、ひとつ炉に、顔を燻くす
べ合った。 「さっき社前の車座評議で、清盛が出した二案というのは、 (ここまで来たものだ。このまま、熊野参詣さんけい
を果たそう。ここで、都の騒乱に計を立てても、すでに後の祭り、力及ばぬことと思う。むしろ熊野の神慮に問い、以後の方針に移ろうではないか) と、いうことと、また次のような一案であった。 (都返りを急いでも、洛内の諸相は一変しているだろう。信頼や義朝一党の備えに抜かりのあるなずはない。我らは旅先、甲冑かっちゅう
弓箭きゅうせん の用意もないし、同勢五、六十人があるばかり・・・・。
如し かず、難波なにわ
ノ津から四国へ渡り、しばし彼の地で情勢の推移を見、兵を集合した上で、入洛を計ろうではないか) これでは、どっちも、消極な退嬰策たいえいさく
にほかならない。 一案にも二案にも重盛は反対した。じじもうなずかなかったのである。── が、筑後には、清盛の真意が読めていた。清盛が最も恐れたのは、京師の大敵よりも、じつは旅を共にしている味方に違いない。これが異心を抱いたら、無造作に、自己の屍しかばね
を路傍にさらしてしまうだろう。首は、京師へ持ってゆけば、その者たちに莫大ばくだい
な恩賞となる。 都に残してある池ノ禅尼や妻子の安否も、清盛の胸を痛めている一問題たることは想像に難くない。── もし、清盛が軍備に移ったと知れたら、信頼、義朝たちは、たちどころに、六波羅を一巨火きよか
に葬り、彼の義母や妻子を獄に投じ、清盛に降伏を強いる囮おとり
とするであろう。それは火を見るよりも明らかなことだ。 まず味方を、次には、内通者や敵方の眼を ── 少なくとも、都に入る直前までは、巧みに、晦くら
ましておかねばならぬ。偽装しながら、しかも急速に、帰路の無事を計ることが、絶対に必要であった。 由来、この時の清盛の決意と言動については、古典の諸本が皆、清盛の不決断と退嬰策を、彼の本心みたいに書き、そして、その卑怯ひきょう
を諫いさ めた者を、子の重盛であるとなし、ひどく彼を無分別者あつかいになし終わっている。 この年、平氏の嫡子重盛は二十二歳。彼のような親の子としても、時代の青年としても、良い子であったことには異論はない。けれど、清盛を悪くゆがめようがために、重盛ひとり忠孝両全の士で、道義、信愛に篤あつ
く、親まさりの良い子にされすぎたきらいは多分にある。 この原因は、古典の諸本が、みな、平家滅亡後の鎌倉期に書かれた物であったということにほかならない。“歴史は勝者が敗者を書いた制裁の記録”
であるという千古の原則によって “清盛像” も描かれていたのである。 |