〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/04/02 (火) あく げん よし ひら (二)

「よう飲むの。義平。酒は好きか」
「好きです」
「恋いは」
「まだ知りません」
「都へは、なにしに来た。一と功名の所存か」
「功名は後のことです。父の難を聞いて、 せつけぬ子がありましょうや」
「はははは。東男あずまおとこ らしい。竹を割ったように言うわ」
信頼は、黒豆を並べたような歯を見せて笑った。男が、かねを染め、薄化粧しているのが、義平の眼には、気味悪かった。
「強げにも見えぬが、よい男ぶりよ義平は。のう、そちも父とともに、早く昇殿をも許されるような身になれ。信頼が取り立てて得させように」
「・・・・」
ニヤニヤと、義平は、笑った。
信頼が武者を見る眼は、飽くまで摂関家せっかんけ の番犬視を けていない。藤原氏万能の習性がまだこの若い頭脳にさえ根を張っていた。かれが義平に与える言葉も、 をもって犬の子を馴らそうとすることによく似ている。
「義平、何を笑う。出世はしたくないのか」
「いえ」 と、義平はかぶろを振った。 「保元のときの、叔父の言葉を思い出していただけです」
「保元のときの? ・・・・ 叔父とは」
「鎮西八朗為朝は、叔父に当たります。保元の乱のおり、左府頼朝公には、叔父為朝に、蔵人たるべしと、にわか除目をなされました。叔父は一笑して、敵を前に、鼻ぐすりの蔵人など得てなにかせん。なりたい人はなんいでもなり給え、と敵陣へ駈け入ってしまいましたとか。 ・・・・後に、鎌倉で聞きましたが、それを今思い出していたのです」
信頼はいやな顔をした。 驕児きょうじ の機嫌にさわったことは確実である。惟方、成親なども、じろと、とげ のある一瞥いちべつ を投げるし、父義朝も 「よく言った」 ともいいかねて、取りなしのつかない空気に耐えていた。
ひと り杯に向かってうなずいていたのは藤原伊通ふじわらこれみち だけだった。
幸いなことには、いや折角な饗宴きょうえん の所へともいえよう。この時、紀州路から早馬が一情報をもたらした。旅先にある清盛の動向である。
すでに、信西しんぜい 一族を滅ぼし、信西系の者は、なべて君側と政局から追放し去った今日、余す敵は、清盛一個といってよい。
留守の六波羅には、清盛の一族と家中もいるが、若輩の義弟や末弟や幼児女房のたぐいで、彼なくんば、おそ れるほどま勢力というものは見当たらない。偵報によれば、それら近親さえ、清盛の妻子を守って六波羅を立ち退いたとも聞こえていえる。── 信頼が軍に令して、 いてそれまでを追究しないのは、
(待て、もうしばし、清盛のはら を見定めてから)
という微妙な局面のふくみであった。また、撃つも捕えるも、必要に迫れば、いつでも一指の令でこと足りるとしていたからでもある。
ただ、信頼以下すべての関心と疑惑は、清盛の決意いかん? その向背は? 動向は? ── という一点にかかっていた。
(おそらく大弐清盛も、熊野路の途中で、立ち往生の態だろう。手も足も出せまい)
これはたれにも言えて、たれにも想像出来る見解だった。
しかしその清盛が、都の乱を知った途端とたん に、どうその足を向け変えるか。対処して来るか。── となるとたれにも容易に予測はつかない。
(降参して出るほか はあるまい)
といい誇る者。また、
(むかし、日吉ひえ 山王さんのう神輿しんよ にさえ、矢を射たほどな男、我武者となって、捨て身の一戦をいど んで来ようも知れぬ)
と、おそ れをなす者。あるいは、
(いやいや、いかな我武者での、それはやれまい。留守の六波羅は弱体だし、都の内外うちそと に義母や妻子も残してあれば、いわば人質を置いてあるようなものよ)
と、多寡たか をくくる見通しも多い。
一面には怖れ、一面にはおご り、彼らが漫然と無策な日をこうして過ごしていた証拠には、その日、紀州からの諜報ちょうほう を手にしても、なお殿上に晏如あんじょ としていたことでもわかる。
「清盛は、どうやら都へ引っ返すらしい様子とある。しかし、今日の早馬では、まだ、しか ともわからぬ。清盛のはら も分からぬ。委細は、次の飛札ひさつ に ── と報せて来ただけの書状であった」
しばらく、席をあけて、別殿にはいっていた信頼と惟方は、もとの座に着くと、左右の人びとへ、そう告げ渡した。人びとはまゆ をひらいてまた杯を忙しくした。信頼も、 めかけた面に酔いをとり戻しながら、
「ときに、鎌倉の小冠者は、このことを、どう考えるか」
と、庭上の義平へ、試問した。
義平は、諸人のざわ めきの中に、あらましを、聞いていたので、率直に、
「もし、わたくしに一手のせい をおかし給わるなら、彼が都へ戻る先に、阿倍野あべの あたりまで出撃します。彼の装備も人数も持たぬ途中をよう して、一戦に好餌こうじ を捕え、大弐どのの首級しるし を持って帰洛いたしましょう」
と、やや上気した面を上げて、生真面目に述べた。その真面目さが、おかしいのか、嘲笑ちょうしょう の声が堂上に流れた。
不思議な国へでも来たように、義平は、きょとんと、眼を澄ましてしまった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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