今日の除目式
から即座に近衛大将兼大臣とみずから成った信頼は、薄化粧の面を祝酒にほの紅く染めていた。そしてさっきから周囲の美言は彼の一身に集まっていたが、ふと、六位蔵人が義朝へ告げて行った小声を耳にはさんで、 「左馬頭、左馬頭。鎌倉からたれが上洛のぼ
って来たのか」 と、大容おおよう
に、幾人も席を隔てた所から訊たず
ねた。 「せがれの義平ということでございます」 と、義朝は答えた。その言葉の下に、信頼が、 「ア。・・・・あの悪源太よな」 と言ったので、なにがおかしいという理わけ
もなく、人びとは皆、くすくす笑った。 悪左府、悪別当、悪右衛門、悪何々 ── というような呼び方は、めずらしくもなんともない。そのころの人の間では、アダ名ぐらいに使われていた。 それは、悪人とか、悪党とか、決定的な極印ごくいん
を打つ意味ではなく、むしろ憎悪ぞうお
の出来ない悪、道徳の規矩きく
以外から人間的に愛称される悪、彼らにもあるが自分らにもあるとはっきり共感の持てる悪、ほんとはとても善い奴なのにその反対のボロを出して世間からたたかれてばかりいる悪
── などの単純でいて実は際限なくむずかしい “善と悪” なるものの差別に対する一種の庶民称といったようなものである。 けれど、衣冠おごそかな近衛新大将が、その庶民話を、殿上で不用意に口にしたので、なんとなく、満座の耳に、おかしく聞こえたものであろう。 義朝も、ちょっと、顔を赤らめたが、 「長く遠国においてあった小冠者ですのに、お聞き及びでございましたか」 悪びれる風もなく答えた。そして、信頼の方から言われない先に、いい足した。 「何ぶん坂東育ちの困り者です。おととし武蔵の大倉で、叔父おじ
の帯刀たてわき 義賢よしかた
と戦い、叔父を討ち取ったものですから、鎌倉の悪源太などと呼ばれ出しました。── が、さすが都の変を聞いて、駆けつけて来たところは、うれしい奴です。親としては、困り者ほど可愛いとやら申す通りに」 「もう何年も会っていないのか」 「されば、相見ぬことも、幾年いくとせ
になりましょう」 「年は」 「十九になります」 「鎌倉からとあれば、夜を日についで、馳は
せにぼって来たことだろう。父も子も、一刻も早く会いたいに違いない。左馬頭、会ってやれ。階きざはし
まで呼び入れたがよい」 「おゆるしなれば」 「音に聞く、鎌倉の悪源太を、われらも見よう。蔵人、蔵人、迎えて来い」 同じ興味は、大なり小なり、他の人びとにもあった。 やがて校書から導かれて来る小冠者の姿に、多くの眸ひとみ
が向いた。皆の眼はちょっと怪訝けげん
を帯びた。期待と違っていたらしい。悪源太とは、名にも似ず、小づくりな凡ただ
の若者だった。狩衣かりぎぬ 、小具足姿こぐそくすがた
も、武家の嫡男なみのものである。ただ、髻もとどり
から顎にむすばれている侍さむらい
烏帽子えぼし の小結こゆい
の紫の組糸くみいと が、青春の健康とその眉目びもく
をひきしめて可憐かれん でさえあった。父は内裏と聞き、宮門へはいるため、取りあえず、烏帽子だけを、新たにして来たものとみえる。 「義平か。そちは果報者よ、吉よ
い日ひ に参り合わせたぞ」 信頼は、彼を階下に見て言った。 「そちも、合戦に出たら、殊勲を立てて、早く加階かかい
昇官しょうかん の恩賞にあずかるがいい。ここに並居る者はみな、過ぐる四日以来、大功を立てて今日の除目じもく
の栄に浴した人びとばかりぞ。──たれか、義平に杯を与えよ。武勲の者にあやかるように」 義平は一度は平伏したが、あとは怯ひる
みのない眼まな ざしで、殿上をながめていた。東国には見ない変な人種をめずらしがっているようでもある。六位蔵人ろくいのくろうど
が杯を前に置くと、見事にほした。酌いでやれば杯を下に置くことを知らない。無口である。飾っている不敵ではなく、都としては珍しい清童だなとたれもが思った。赤黒いが皮膚の色沢いろつや
が童貞をあらわしている。どこか眸に無邪気さがある。 |