〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/03/31 (日) しん 西ぜいあな り (四)

けれど案外なのは、一部の得意らしい人間の心理である。すぐ有頂天にしてしまう雰囲気ふんいき のいたずらでもある。朝廷の廟閣びょうかく りて、綸旨や院宣を、ここ数日もわたくし していた人びとは、小人が一番欲しがって、小人が一番やってみたいことを、すぐやり出した。
叙勲である。
信頼は、多年、なりたがっていた近衛大将になった。かつ、大臣を兼ねた。
惟方、経宗、成親、師仲など、みな枢要な顕職につき、武者では、左馬頭義朝に、播磨の国が与えられた。佐渡式部、多田蔵人、源兼経なども、それぞれかみじょう に補せられた。義朝の股肱ここう 、鎌田正清は、兵衛尉ひょうえのじょう になって、正家と改名した。
ただここにいなくてはならないはずの兵庫頭頼政が、除目式じもくしき れの庭にも姿を見せなかった。
頼政にも、恩賞がないわけはない。御沙汰ごさた に不平なのか、人びとのささやきにのぼった。当人からは、四日の当夜、あし に負傷して、老体の自由を欠くため ── と官へ届け出ていた。 れの庭に満ちて、自分自分の加階昇進に満悦まんえつ している得意の群れには、そういう欠席者のうわさなどは何の興味もない。やがて紫宸ししん の庭の式も終わり、一同、祝杯をあげて、
「まずは、大事も成就じょうじゅ し、いくさ幸先さいさき も上々。めでたき世代の到来を、ことほ ごうよ」
と、凱歌がいか を唱え合った。
だが、心ある者には、凱歌がいか も心から口には出なかったに違いない。この日まだ、天皇、上皇ともに、一本いっぽんの 御書所ごしょどころ と黒戸御所の冷たい暗室に幽閉されたままだった。いわゆるお手盛りの叙爵昇進なのである。
しかし、天皇すらこれに抗するお力がない。なんで公卿堂上たちとて、それをおもて や口に出すことが出来よう。今はただ、信頼や惟方これかた の意に逆らわぬように、与えられた席序せきじょ に甘んじて、付和雷同を身の護符ごふ としているしかない。
ところが、そうした人びとの内にも、一こう四辺あたり おかまいなしに、頓着とんじゃく なく、屈託くったく なく、愉快に飲んで愉快にしゃべっている公卿もある。たれかと見ると、九条院 (呈子しめこ ) の父君にあたる藤原ふじわら 伊通これみち であった。
伊通どのは、優長でおもしろい御仁だ、とはたれもの評定であった。おかみ の前でも、雑色ぞうしき 舎人とねり の中に交じっても、よく冗談を言う人だった。人を笑わせる妙を持っている春風しゅんぷう のような老公卿なのである。
「はははは。まことに、なんともいえぬ、うれしい日ですな。仰せの通り、この除目じもく御式ぎょしき ほど、皆が皆、ごきげんのよい日はない。ねがわくば、皆がいつまでも、こんなご機嫌で、仲よくにこにこ、暮してくださると、この老人なども、もっと笑うて暮せるがなあ。アハハハ」
さっきから、老人のくせに朗々といく響く高声で、大勢の憂いがちな顔を浮かせていたが、その後で、
「なにせい、お若いところがそろうて、大将大臣やら、諸国の守護や参議になられ、万朶ばんだ の花を見るごとしではある。めでたい。じつにめでたい。だが、麿まろ には一つ不審があるな。いや不平だぞよ、その者だけは」
さては、この老人、酒興にまぎらして、ここに見えぬ頼政の不満でも代弁するのではあるまいかと、人びとが、
「あなたにしては、めずらしいことを仰せられる。御不審とは何か、不平の者があるとは、誰のことですか」
と、大真面目に、たず ねた。
すると、伊通これみち も、真面目に、
「── されば、かくもはな やかに、御式ぎょしき調ととの え、人を多く殺しただけの功で、叙位叙勲を仰せつかるなら、三条烏丸の院の御所にある庭の井戸こそ、四日の夜には、一番多く人を殺しておりましたぞ。その井には、あんで、官位のお沙汰がないのでしょうかな ── 井の底から伊通の夢枕ゆめまくら に、夜々、そういう恨みが聞こえてまいるがなあ」
いいすまして、伊通が例の大口あいて呵々かか と笑うと、あたりの人びとも釣り込まれて、またおかつ ぎ召されたわと、手を打って、笑いどよめいた。
この日、こういう所へ。
「鎌倉の小殿おどの が、はるばるお上洛のぼり になって見えられました。そしてただ今、校書殿しょうしょでん御坪おつぼ の小門に、お控え中でございますが」
と、六位蔵人ろくいのくろうど から、義朝の耳へ、そっと、知らせてくれた。
鎌倉の小殿とは、彼が、鎌倉在職のころ、相模の三浦介みうらのすけ の手もとに預けておいた長男の悪源太あくげんた 義平よしひら である。
「── 来たか」
と、義朝は、うれしく思った。会いたく思っていたところである。成人ぶりはいかにと、日ごろの親心がわくわくうずく。しかし、時も時だし、場所も場所。どうしたものかと、思案顔であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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