けれど案外なのは、一部の得意らしい人間の心理である。すぐ有頂天にしてしまう雰囲気
のいたずらでもある。朝廷の廟閣びょうかく
を仮か りて、綸旨や院宣を、ここ数日も私わたくし
していた人びとは、小人が一番欲しがって、小人が一番やってみたいことを、すぐやり出した。 叙勲である。 信頼は、多年、なりたがっていた近衛大将になった。かつ、大臣を兼ねた。 惟方、経宗、成親、師仲など、みな枢要な顕職につき、武者では、左馬頭義朝に、播磨の国が与えられた。佐渡式部、多田蔵人、源兼経なども、それぞれ守かみ
や尉じょう に補せられた。義朝の股肱ここう
、鎌田正清は、兵衛尉ひょうえのじょう
になって、正家と改名した。 ただここにいなくてはならないはずの兵庫頭頼政が、除目式じもくしき
の曠は れの庭にも姿を見せなかった。 頼政にも、恩賞がないわけはない。御沙汰ごさた
に不平なのか、人びとのささやきにのぼった。当人からは、四日の当夜、脚あし
に負傷して、老体の自由を欠くため ── と官へ届け出ていた。曠は
れの庭に満ちて、自分自分の加階昇進に満悦まんえつ
している得意の群れには、そういう欠席者のうわさなどは何の興味もない。やがて紫宸ししん
の庭の式も終わり、一同、祝杯をあげて、 「まずは、大事も成就じょうじゅ
し、軍いくさ の幸先さいさき
も上々。めでたき世代の到来を、祝ことほ
ごうよ」 と、凱歌がいか
を唱え合った。 だが、心ある者には、凱歌がいか
も心から口には出なかったに違いない。この日まだ、天皇、上皇ともに、一本いっぽんの
御書所ごしょどころ と黒戸御所の冷たい暗室に幽閉されたままだった。いわゆるお手盛りの叙爵昇進なのである。 しかし、天皇すらこれに抗するお力がない。なんで公卿堂上たちとて、それを面おもて
や口に出すことが出来よう。今はただ、信頼や惟方これかた
の意に逆らわぬように、与えられた席序せきじょ
に甘んじて、付和雷同を身の護符ごふ
としているしかない。 ところが、そうした人びとの内にも、一こう四辺あたり
おかまいなしに、頓着とんじゃく
なく、屈託くったく なく、愉快に飲んで愉快にしゃべっている公卿もある。たれかと見ると、九条院
(呈子しめこ
) の父君にあたる藤原ふじわら
伊通これみち であった。 伊通どのは、優長でおもしろい御仁だ、とはたれもの評定であった。お上かみ
の前でも、雑色ぞうしき 舎人とねり
の中に交じっても、よく冗談を言う人だった。人を笑わせる妙を持っている春風しゅんぷう
のような老公卿なのである。 「はははは。まことに、なんともいえぬ、うれしい日ですな。仰せの通り、この除目じもく
の御式ぎょしき ほど、皆が皆、ごきげんのよい日はない。ねがわくば、皆がいつまでも、こんなご機嫌で、仲よくにこにこ、暮してくださると、この老人なども、もっと笑うて暮せるがなあ。アハハハ」 さっきから、老人のくせに朗々といく響く高声で、大勢の憂いがちな顔を浮かせていたが、その後で、 「なにせい、お若いところがそろうて、大将大臣やら、諸国の守護や参議になられ、万朶ばんだ
の花を見るごとしではある。めでたい。じつにめでたい。だが、麿まろ
には一つ不審があるな。いや不平だぞよ、その者だけは」 さては、この老人、酒興にまぎらして、ここに見えぬ頼政の不満でも代弁するのではあるまいかと、人びとが、 「あなたにしては、めずらしいことを仰せられる。御不審とは何か、不平の者があるとは、誰のことですか」 と、大真面目に、訊たず
ねた。 すると、伊通これみち
も、真面目に、 「── されば、かくも華はな
やかに、御式ぎょしき を調ととの
え、人を多く殺しただけの功で、叙位叙勲を仰せつかるなら、三条烏丸の院の御所にある庭の井戸こそ、四日の夜には、一番多く人を殺しておりましたぞ。その井には、あんで、官位のお沙汰がないのでしょうかな
── 井の底から伊通の夢枕ゆめまくら
に、夜々、そういう恨みが聞こえてまいるがなあ」 いいすまして、伊通が例の大口あいて呵々かか
と笑うと、あたりの人びとも釣り込まれて、またお舁かつ
ぎ召されたわと、手を打って、笑いどよめいた。 この日、こういう所へ。 「鎌倉の小殿おどの
が、はるばるお上洛のぼり になって見えられました。そしてただ今、校書殿しょうしょでん
の御坪おつぼ の小門に、お控え中でございますが」 と、六位蔵人ろくいのくろうど
から、義朝の耳へ、そっと、知らせてくれた。 鎌倉の小殿とは、彼が、鎌倉在職のころ、相模の三浦介みうらのすけ
の手もとに預けておいた長男の悪源太あくげんた
義平よしひら である。 「──
来たか」 と、義朝は、うれしく思った。会いたく思っていたところである。成人ぶりはいかにと、日ごろの親心がわくわくうずく。しかし、時も時だし、場所も場所。どうしたものかと、思案顔であった。
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