木幡
峠 で、信西が光泰に討たれた日の
── 師走 十三日は、後に思い合わせると、熊野路の旅先にあった大弐清盛が、六波羅からの早馬で、都の変を知った日と、ちょうど同日であったことがわかる。 ──
光泰は、信西の首を携 え、ひとまず、京の神楽ケ岡の自分の宿所まで帰った。そして、それがもう深夜であったから、取りあえず官へ報告だけをしておいた。 すると、明けて十四日の朝、待ちきれない物でも見るように、信頼は惟方と、ひとつ牛車に同乗して、自分の方から、信西の首を実検に出向いてきた。 そのくせ、変わり果てた信西の首「級と、対したときは、 「おお、怖
・・・・」 と、女のように、面をそむけ、黒々と鉄漿
を染めている歯の根をカチカチと、いつまでもわななかせていた。 次の日、首は大路を渡して、獄門に梟
けられんと、布令 された。今日の上下は河原に市をなして見物した。信頼、惟方、経宗、義朝なども、車を立ててそれを見た。──首級がその前を渡されて行く時、
「信西の首が二つほどうなずいて通った ──」 というおかしな風説がその日のうちにぱっと伝えられた。 「ばかな」 と一笑に付す人もあり、 「さもあらめ」 と、首の真似してうなずき者もあった。人心がいわせ、人心が持ちまわるのである。もう微妙な底流のものが、うずいている兆
しともいえる。 信西の子息やら身寄りの者十九名も、あちこちで捕らわれてことごとく斬られた。かつては、保元の戦後処理に当たり、日ごと日ごと、かれが河原で斬らせていた通りに、今は、かれの骨肉たちが打ち首にされていた。 朝令三百余年のあいだ廃されていた死刑の法律を復活させたかれが、まる三年もたたぬうちに、西の獄
の木に、首となって、梟けられているのを見ては、たれもが、なにか自然の皮肉に肌
を粟 にせずにいられなかった。 |