〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/03/31 (日) しん 西ぜいあな り (一)

── 明けて、十日の洛内は、まだ殺伐さつばつ な気に満ちていた。町屋の店戸たなど も開かないし、一般の人通りもない。
通るのは、血や灰ぼこりを、満面にこびりつけて、夕べのままな姿をした甲冑かっちゅう 武者むしゃ の群ばかりだった。
商戸でいながら平常通り朝を迎えていたのは、五条坊門の鼻の家だけである。鼻の伴卜ばんぼく は、夕べから寝ていない。彼は夜っぴいてわが家の屋根の上に上っていた。そして烏丸や姉小路あたりから、巨大な火塵かじん が黒けむりに噴き上げられるたびに、
「ああ、勿体ない・・・・黄金こがね の火の粉だ」
と嘆息しては、見物していた。人命の犠牲にえ を嘆じるのではなく、物質を嘆惜しているのだ。ひとの物でも、ひとごととは思えない彼である。
「さあ、これで、先は知らぬが、幾日かは、右衛門督うえもんのかみ 信頼卿のぶよりきょう の天下みたいなものになってしまった。変なものだなあ、どうも・・・・。 だが、変でもなんでも、信西入道亡き後は、自然、そうなってしまうだろう」
かなたが、下火になると、鼻は、さっそく明日の算用を考えた。無常だの、はかなさだの、そんな観念は、鼻の胸へ忍び寄れもしなかった。屋根上のからす みたいに、彼の頭はくるくるせわ しない。
「── さて、六波羅ろくはら は、どう出るだろう。大弐清盛が留守では、討ち迎えもなし得まい。その大弐どのも、紀州路の旅先とあっては、手も足も出せっこない」
振り向いて、すぐ東の、六波羅の方をながめた。寂として、何の影も動いていない。が、その暗闇の内にある空気はおよそ分かる。手に取るように、鼻には察しがつく。
「そうだ、おれは商人。よくぞ商人に生まれける・・・・か」
屋根をすべり降りると、彼は、やや昂奮こうふん している声で、
「おかか 、お嬶。── 鹿七を起こせ。なに起きているとか。下僕しもべ どもに言え、手車を出して、土倉つちぐら の前へ来いと」
何か、たか ぶると、地金じがね が出て、彼は自分にはく をつけるために高貴からもら った妻の梅野を、つい自分からおかか などと呼んでしまう。
土倉から、彼は、せっせと酒瓶さかがめ を運び出した。そしてその幾十 を、三台の手押し車に積ませて、
「信頼、義朝様などのおられる御陣所へ、ほんの心祝いですと申して、お届けして来い。経宗様には、後刻、伴卜がお目にかかりましてと、申し上げておけばよい」
と、鹿七へ言い含めた。
こんな物を積んで外を歩くのは、まだ危険だと皆言った。わけて使いに立つ者は、渋ったが、
「ばかをいえ、武家仕えの雑武者であったみろ、さっそく、夕べは矢太刀の下をくぐ っていなければならないのだ。その雑武者が、どれ程、妻子に腹いっぱい物を食わせていると思うぞ。これくらいな瀬戸際がが通れなくて、一人前の商人といわれようか」
と、鼻は商人しょうにん 冥加みょうが をならべたてた。そして使いの者を夜明けの往来へ出してやると、さて、梅野の給仕で朝粥あさがゆ をたらふく食べ、彼は夜具をかず いて、寝てしまった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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