後白河上皇は、まだお起きになっていた。 上皇となられても、御年は三十一、お若いのである。お遊びもさかんであった。 その夜も
── 信西 の息子の俊憲としのり
、貞憲さだのり などを引き止められ、宿直とのい
の公卿や近習を寄せて、法師ほうし
田楽でんがく の真似など御覧になっておられた。 宮中に伝わる古楽や管絃かんげん
なども、何か殿上てんじょう にも飽かれ、楽人自身も、行き詰まっている趣がある。ところがたまたま、後月あとげつ
の十六日、延暦、園城寺の僧どもが大勢やって来て、寺領の百姓の間で行われている田楽舞や法師舞などを、御覧に入れて帰って行った。叡山、三井の荒法師といえば、いつも強訴ごうそ
の恐こわ らしさばかりが連想されるが、その日は、山法師でもこれくらいな粋も芸も持っておりますよと、隅に置けない余技を示したものであった。その野趣に富んだ俗踊ぞくよう
俗歌ぞつか に近いものが、またひどく上皇にはおめずらしく、新鮮な感じをお受けになったものらしい。 「貞憲は、忘れたか。あの舞の手は、こうぞ。脚あし
は、こうして。・・・・いや、そこの歌の節ふし
はちがう。まいちど、やり直せやり直せ」 上皇は、夜の更ふ
けたのも、お忘れのようだった。 冬の夜の御所は、奥深いところほどいとど寂しく、その代わりに、大殿廂おおとのびさし
の内では、人目も拘束なく、ごく側近のお内輪うちわ
だけ、こんなお戯たわむ れもままあった。 後白河は、蹴鞠けまり
もお上手で、よく三位経宗や信頼などもお相手に召されるが、なかなか彼らにも負けてはいない。わけて舞曲には、正格な御教養をもっておられるので、はなはだ “勘かん
” がよいのである。 「だめ、だめ。貞憲は落第よ。まだ俊憲の方がましであろう。俊憲、まいちど仕し
てみせい」 「いけません。陛下はお狡ずる
い。お叱言こごと ばかりがお上手じょうず
です。こんどは陛下が遊ばして、範を示し給わらねば」 上皇は、お笑いになって取り合わない。上西門院の統子の君もお側におられて、陛下はおずるいという俊憲や貞憲と一緒に、おもしろ半分にお責めになる。 そうした御興のおりだった。にわかに、ひとりならず、上達部かんだちべ
たちの跫音あしおと や、うろたえ声が、細殿ほそどの
の遣戸やりど を隔てて廊に聞こえた。 人びとの面は、さっと白けた。 「あ。・・・・出火?」 たれもが、同じ直感と、戦慄せんりつ
をもった。 つい先月の晦日みそか
である。祗園ぎおん 御旅所おたびしょ
から出火して、飛び火のため、河原院、因幡いなば
堂、六条院などを焼き払い、正月の節会せちえ
に出る五節ごせち の舞姫の一人が、あわれ焼け死んだと聞いていたばかりなので、火災の多い年暮くれ
でもあるし、すぐ人びとの頭には同じ恐怖が描かれたのであった。 「おびただしい武者どもを具ぐ
して、右衛門督うえもんのかみ
どのが、御苑に駒こま を乗り入れられ、奏聞そうもん
のことこそあれと、篝火かがりび
もとぼさず、わめきたたておられまする」 上達部かんだちべ
のひとりが、早口に、細殿ほそどの
の口からこう御座所へ奏していると、つぎつぎに、駈け乱れて来る者たちもまた、 「信頼どの、そのほかの諸卿には、怪け
しくも、みな甲冑かっちゅう を召されています。何事にやと、問い参らせても、答いら
え給わず、ただただ、上皇におん別れのため推参して候う ── とばかり声々に仰せあるばかりです」 「諸門の外にも、悍立かんだ
ったる馬のいななき、武者の雑言ぞうごん
など、ただごとならず聞こえて参ります。あれ・・・・あのように」 吹き入る風に、たくさんな燭しょく
が、一せいに墨を吹いた。 「あ。 ・・・・御出座遊ばしますか」 「紙燭ししょく
。── 紙燭を」 「おあぶない」 俊憲兄弟や近習たちは、上皇のおあとを追いかけて、氷のような廊を走った。 上皇は、人もあろうに、信頼と聞かれたので、 (何事ぞ、公卿の身をもって) と、いたく逆鱗げきりん
されたのである。一言の下にしかりつけて、彼らの不穏をお鎮めになるおつもりであったらしい。 |