〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/03/30 (土) 不 知しらぬ (三)

紙燭の点々たる火が、吹く風、駈ける人びとの手に、不知火しらぬい のように流れた。そして後白河のおん姿を追い、南殿なんでん御柱みはしら のあたりで止まった。そして、そこにたたず まれた上皇のお姿を見出すと、庭上にあった信頼は、馬も降りないで、その君の影へ向かって言った。
「── 年来、君のおいとしみをこうむ りましたが、信西しんぜい 入道にゅうどうざん によって、近く、わたくしたちへ追討の兵が向けられるという、もっぱらの取沙汰とりざた です。ためにしばらく、難を避けるため、同憂のともがら をかたらい、これから東国へ下向いたしますれば、おん別れに参りました」
後白河には、余にも、事の意外なのと、かつまた、いわれのない、信頼の言葉に、仰天あそばして、
「たれが、そのような、根も葉もない風説を放ったものぞ。何者かがため にしての流言にすぎない。信頼は、たばか られているのであろう」
「いえ、たしかです」
ちん は、知らぬ」
「しかし聖上にはいかがありましょうか」
「もし、事実ならば、朕が、聖上にお会いして、おこと の讒を解くであろう。物々しや信頼、その甲冑は、何たる姿ぞ」
「では、夜陰ながら御心に任せて、ただちに、内裏へ御供いたしましょう。── やよ人びと、御車を寄せて、上皇をお移し参らせい」
「・・・・あ。信頼、なにを命じるのか?」
上皇は、まるで別人みたいな信頼の容子ようす に、あきれ給うて、彼をお叱りになるどころか、うろうろしておしまいになった。そこへ、お体を避けるすきもなく、ドドドドと土足にまま階を上って来た武者ばら が、左右からおん手を組んで、おそ れもなく、そのまま御車寄の方へと、お連れしして行った。
一味の伏見中将師仲もろなか が、すでに御車をそなえて、そこに待ち構えていた。
上皇は、武者どものむげな仕方に逆鱗げきりん されて、なかなか御車へお乗りにならない。師仲へ向かっては、
「師仲。そちもまた、長柄を抱え、物具もののぐ などして、いかなる業をなそうというのだ。朕を、いずこへ連れて行く気か」
と、おんまなじり を怒らせて叱った。
師仲は、さすが身がすく んで、おなだめするのも、しどろもどろに、
「いえ、ほんの、しばしがほどです。決して、ご憂慮には及びません。ともあれ、ここはやがて」
などとども り吃り持て余していた。その間に、中宮の統子の君も、甲冑の人びとに囲まれてここへ来た。お若い女性ではあるし、ただおろおろ泣いておいでになる。武者たちに押し上げられて、いわるるまま、車の内へお入りになってしまった。それを御覧になると、上皇もついに、力にくつ して、おん身をまか せられてしまった。そして統子の君と抱き合うばかりに、車蓋しゃがい の内で、おののき、うずくまっておられた。
そのとき、何者か、一名の武将が、声高々たかだか と命じていた。
「やよ兵ども、御車を り出すを合図に、門々へ、火を けよ。内なる信西入道の子どもらを外へ逃がすな。防ぐ者あらば立ち向かって討って取れ」
御車は、早くも、諸門の起こる火光を後に、大路へ、遣り出された。
牛のはだ に鳴るムチの音がきびしかった。御車は、波上を行くような速度で、朱雀すざく から大内おおうち へがらがら駈けた。── 前後を、左右を、うち囲んでゆく騎馬の人影はたれたれか右衛門督うえもんのかみ 信頼のぶより源左馬頭げんさまのかみ 義朝よしともみなもと の一族光泰みつやす光基みつもと李実すえざね兼経かねつね など。
そのほか、おびただしく駈けつづく坂東武士の群影のうちには、熊谷次郎直実、足立あだちの 藤太とうた 、金子十郎などの屈強も交じっていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next