頼政はもう五十以上であった。義朝よりは、あるかに年上である。いや、五条謀議の席では、集まった面々のたれよりも、かけ離れた年長者であった。 「兵庫
どのの名が欠けてはと、一同、胸をいためていたが」 「かくは兵庫どのも見え、力を協あわ
すこととなれば、もう大事は成ったようなものよ」 と、信頼もいい、惟方これかた
もいった。彼一個の出席が、精神的にも公卿側を勇気づけたことは、ひと通りでない。 義朝は、元より源家の重鎮には違いないが、頼政もまた、摂津守せっつのかみ
頼光よりみつ の曾孫そうそん
仲間政の子であり、かつての保元の乱にも、鳥羽法皇が遺詔にも書きおかれた十将の中の一人でもあっや。同族中の年長者としても、源氏の一翼としても、この人を無視してよいという者はない。 ことに彼は、兵庫寮ひょうごりょう
の頭かみ でもあった。 兵庫寮は、朝廷の兵器廠へいきしょう
ともいえる部局で、安嘉門の内にある。特に厳しい柵内さくない
におかれ、造兵司と鼓吹司こすいし
と、兵器庫とが、そに中にある。 「兵庫鎖ひょうごぐさり
ノ太刀」 「兵庫作りノ鞍くら
などという物の名称もあるゆえんである。 頼政の加盟は、その兵器庫を味方に持つ意味からも、重要視された。しかし頼政自身は、日ごろからの人がらもそうだが、ここの場所でも至って寡黙かもく
である。信頼や惟方が、義朝を相手に、過激な語を吐いたり、作戦上の機略を検討し合っていても、問われぬ限りは黙然とひかえている。── というよりは、どこか分別くさい眼め
で、観み ているという風であった。 雨は、宵のまにやみ、風となった。 人びとはやがて散々ちりぢり
に深夜を星屑のように別れて帰った。 翌八日の洛内は、表面、何事も見られなかった。おそらく昨夜の人びとは、おのおのの館の奥で、半日ほどは深々ふかぶか
と眠りを摂と っていたことだろう。そして急速な地下行動は、同夜から翌日へわたって起こされていたものに違いない。 それは、九日の夜半だった。 時刻は、子ね
ノ刻こく
(十二時) 前後。 六条の辻つじ
、五条四条の辻々、大路は朱雀すざく
、烏丸からすまる などの西東から、時をひとしくして、地鳴りに似た人馬の跫音が起こった。と思う間に、やがて一つにむらがった人馬の影は、真っ黒に三条烏丸の上皇の御所を取り巻いていたのであった。 甲冑かっちゅう
の兵や騎馬の諸将は、呼びあい呼びあい、手勢を分けて、門々を外からヒシと包囲した。 その太刀や物の具が、星空に光を跳は
ね、地は凍い て返って、物々しさ、恐ろしさ、なんと形容も出来ない。 総勢、五、六百騎と、数えられた。 中でも主力の一群は、正門の前へ、馬上の影を重ねあい、木枯らしのように、門の内へ呼ばわっていた。 「人やある。疾と
く御門を開け候え。これは右衛門督信頼とその子信親にて候うが、にわかなことあって、上皇におん別れに参りたるにて候うぞ。開けよ、遅疑ちぎ
なく、ここを開けよ」 兵たちも、声と一緒に、烈しくそこの門扉もんぴ
を打ちたたいた。── 事面倒な、打ち破れ、とわめく兵もある。しかし、馬上の将の影は、手を振って 「しっ・・・・」 と後ろ者を制止した。仰ぐと、御所の大殿おおとの
をかこむ冬木立の梢は、人骨のように白々と立ち並び、そこにひょうひょうと鳴る風の声はあった。けれど依然、内なる衛士えじ
や舎人とねり の答えはない。 |