〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/03/29 (金) 商 人あきゆうど むね ごよみ (二)

手代の鹿七は、やがて、それらの男女を旅へ立たせて、やれやれという顔つきだった。そして燃え残りの焚き火のそばへ寄っていると、そこへ二両の手車を押して市場の男が入って来た。男どもは、雑巾ぞうきん みたいな直垂ひたたれ の袂を背中で結び、烏帽子えぼしはかま鱗屑うろこくず に光らせていた。
「だんな。こんな大きな明石鯛あかしだい を、しかも五十枚も、一度にそろえたことはないって、漁師も言っておりましたぜ。どうです、この見事なこと」
男たちは自慢しながら、二尾ずつ笹詰めにした尺余の大鯛を二十五かご で五十 、そこへ下ろした。
鼻も出て来て 「ご苦労、ご苦労」 と、ねぎらっていたが、そのおびただしさに、目惑めまど いした。
「おいおい、すずき はどうした。かんじんな鱸は」
「え、鱸ですか。だんな、鱸は一匹でよかったんでしょう」
「そうよ、鱸が眼目なんだ。五十尾の鯛も、鱸がなくては、花見に酒がないような物になっちまう」
「ありますあります。すばらしい大鱸だ。だんな、べつな籠で、ここにあるのが鱸ですよ」
男たちが戻っていくと、鼻は、かねて鹿七に命じておいた進物の支度を急がせた。おびただしい魚はすべて包装を改められ、笹の葉や南天なんてん の実でいろど られ、一荷の吊台つりだい に納められた。
手代の鹿七を供に連れて、鼻の妻は、盛装をこらした姿で、五条大橋を東へ渡って行った。
うしろにはまた、二つり担架たんか を小者にかつ がせて従えていた。一台には鮮魚の進物、もう一台には巻絹だのそう酒瓶さかがめ だのが、美しく盛られていた。もちろん油単ゆたん が掛けてある。外からは婚礼の荷やらなにやら分からない。
橋を渡ると、すぐその辺から、平家衆の住むかき築土ついじ の六波羅聚落じゅらく である。明日あす 十二月四日には、清盛、重盛父子が、熊野へ立つという日であった。そのせいか、馬、車、諸家の郎党たちの往来が常より繁しい。
鼻の妻は、御台盤所みだいばんどころ 屋敷やしき の方へ曲がった。厨門くりやもん の西に、もう一つ女房門がある。彼女は、門侍もんざむらい とも日ごろから懇意らしく、笑い交わしただけで通された。奥まったつぼね前栽せんざい の木陰へ、その姿は隠れて行く。
やがて。── 女の長ばなしでもして来たためか、待たされたのか、ずいぶん長い時間の後、彼女はいそいそ戻って来た。帰りがけにも、門侍たちへ、あいそをまき、なにか鼻ぐすりを、こぼして帰った。
「梅野、どうだった、御首尾は」
鼻は待ちかねていた。妻の姿を見るとすぐたず ねた。
「それはもうあなた、たいへんな、お喜びようでございました。御台盤所様にも」
「そうか、奥方の時子様に、お目にかかれたのか」
「そればかりでなく、品々を御前に御披露ごひろう くだすって、清盛さまにも、重々のおよろこびぞやと、おことばを賜りました」
「ほかの品々はともかく、鱸のことには、なんとも仰せはなかったか」
「── わが家の吉魚きちぎょ は鱸ということを、朱鼻は、いつ、たれに聞いてぞや。しかも明日は殿の熊野立ちという今日に、鱸とは、ようぞ気づいたものよ。心ききたる第一の贈り物。・・・・と、それはそれは、お めにあずかって、わたくしまでが、なにやらうれしくなってしまいました」
「その図に乗って、うかとしたことを、よもや口をすべらしはしまいな」
「いえ、あのことは・・・・」
と、梅野は急に、怖ろしい良人のかけ引きと、使いの意味を思い出して、口をつぐんだ。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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