〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-U 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
六 波 羅 行 幸 の 巻

2013/03/28 (木) 商 人あきゆうど むね ごよみ (一)

霜の朝である。近くの五条坊門の市場は、いつものような雑鬧ざっとう に明けていた。そこらの小さい軒並みのたな とは比較にならない大きな店家てんや を持つ朱鼻あけはな伴卜ばんぼく の住居の奥まで、その喧騒けんそう は往来をこえて聞こえて来る。
鼻は、人いちばい、早起きだった。── もう得意先か、どこかを一回りして帰って来た。ただでさえ赤い鼻を赤くさせ、馬のような白い大息を凍らせながら、すぐ焚き火のそばに寄るでもなく、雇人長屋をのぞいていた。
「おいおい、わいらはまだ支度にかかっとるのか。なんぼ、旅売りに出るからというて、念入り過ぎるぞい。早う出んか、早う」
そこから少し離れた所に、またべつに販女ひさぎめ たちばかりの住む長屋がある。そこでも、彼はわめ いていた。
「今月は師走しわす だぞよ。おとといから十二月に入ったのを知らぬのか。わいたちも、年暮くれ いっぱいは精出して稼いでおかねば、正月をどうするのや。人なみに、 れ着の一枚も着て、白粉おしろい でも塗りたくらにゃなるまいがな」
それからである。鼻は、やっと、庭づたいに住居の縁へやって来た。そして、
「梅野、梅野。飯をくてい、朝飯じゃ」
と、ワラぐつ を脱いで、家の内へ上がった。
彼の妻は、女童めわらべ と一緒に、粥鍋かゆなべ やら干魚や漬物つけもの などを取りそろえて、人なみ以上勤勉な良人おっと に、人なみ以上気をつかった。
「お寒かったでございましょう。けさは、氷柱つらら が下がっておりますもの」
「なんのい」 と、鼻はもう粥の椀をフウフウ吹きながら、 「十二月といえば、世間は暗いうちから車も牛も稼いでいる。わが家の販夫ひさぎ たちは、 もじさ知らずで、どうもならん。── あ、鹿七は店にいるか。ちょっと、ここへ呼んで来い」
女童めわらべ が呼びに行った。鹿七とは店の手代てだい の一人である。鼻は二、三日前の朝、夕顔ゆうがお 三位さんみ がここを訪ねて来て、彼の密談を受けてから、その灯日、鹿七にも自分のはら を割っておいた。そして、人出入りの多い店の締まりなども、なにかとのみこませてあるのだった。
「鹿七。あれからなにも怪しそうな者は来ないかね。大丈夫だろうな」
「ご安心くださいまし、表の方のことは一切。・・・・それに、年暮くれ うち は、店先の小販こひさ ぎは仕らず候と、掛札かけふだ をしておきましたから」
放免ほうめん (密偵)六波羅ろくはら 衆などが、どう姿を変えて来まいものでもないからな」
「いえ、それよりは、うちの販夫ひさぎ たちの目や口を、よほど、お気をつけになりませんと」
「だからさ、今日かぎり、長屋のあれどもはみな旅販たびひさ ぎへ出してしまうのだ。それを今朝も手間取っているから、今、ひと怒鳴りやって来たところだ。もう一度、お前が行って、側から喧しく追いたてろ」
「承知しました。申しつけましょう」
「ア。お待ち。まだ用があったぞ。昨日魚市の者へあつらえた大鯛おおだい は、まちがいなく届くだろうな。── 今日は三日、明日は四日、明日となっては、間に合わんでな」
「魚の夜船は、夜明けによど へ着いても、ここまで着くには、どうしても陽が高くなります」
「荷が着いたら、おまえも梅野の供をして、ちょっと行ってもらわにゃならんぜ」
「へい、それも心得ております」
土倉の前では、行商の旅へ立つ販夫の男女が群れて、荷を負ったり、荷駄にだ に積んだり、わいわい騒ぎ合っていた。毎年、暮れになると、地方向きの雑貨をにな って、大和やまと和泉いずみ近江路おうみじ 、遠くは美濃みの あたりまで売子を出すのは京商人の例であるが、なぜか朱鼻あけはな の店では、それが例年より早く行われた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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