〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/28 (木) 白 峰 紀 行 (一)

五部大乗経の御写経は、三年余りの心血の御結晶として、やがて、終業された。
── とともに、新院は、極めて自然なお望みを抱かれた。
「これは、自分の悪心悔解かいげ のため、また、罪業ざいごうつぐな いのため、一千一百日の間、身を苦しめ、心を責めつつ、一念菩提ぼだい を祈誓して、浄写し終わったもの。── かかる配所に、朽ち捨てさすもわびしい限りよ。せめては人の世の、貝鐘ばいしょう もする仏閣の地へ供えたい。・・・・願うらくは、父鳥羽法皇の、とこしえに眠りて安楽寿院あんらくじゅいん一隅いちぐう の土とともに置きたい。そこに置かれたならば、後生ごしょう までの、おん びともなり、どれほど自分の心も安らぐか知れまい」
思し召しは、目代もくだい から国司こくし 李行すえつら を通じ、御写経の数巻とあわせ、長文の祈願書となって、都へ送られた。
これについては、院の御兄弟たる仁和寺の法親王を始め、ひそかな同情者も、朝廷の聴許をうることに、ずいぶん、運動もしたことと思われる。
ところが。
やがて、官の意向は 「主上おんゆる しましまさず」 と令達し、法親王の御書状にも 「おんとが め重くおわせば、たとえ御手跡たりとも、都に近き地には置かれ難き由──」 とあって、心血の御写経数巻は、日を経て、そっくりそのまま、突っ返されて来た。
これを、都へいたすとき、院には、御写経の巻末に、
浜ちどり 跡は都へ 通へども  身は松山に 音のみぞ聞く
と、お心こめた御詠までを、書き添えておられたのである。そうしたお歌のこころ はもとより まれず、今は、真心を込めた懺悔のかたみすらも、都の端へ置くのはゆる されないというのだ。あくまで望郷の鬼となって囚屋しゅうおく に死せよというのだ。
何たる無慈悲。むご さ、冷たさ。
「・・・・無念なっ」
この余りな衝撃のせつなさから、新院の御心理は、まさに、発狂に近い御容体になられたといっても過言でない。
「さもあらば、後生ごしょう までの敵よ、ござんなれ」
おんまなじり を裂いて、都の空へ、叫ばれもし、また壁へ向かって、そこに何者かを見られるが如く、ののしりたけ っておられもした。
「ようし。われを無限の魔道におと さんとなら堕すもよし。われも、この経文を、魔道に回向えこう し、魔縁の魂魄こんぱく となって、うら みを散せずにおかぬであろう」
佐ノ局や女房たちは、おそ ろしさ、浅ましさに、院の左右に取りついて、さまざまおなだ めしたものの、がん として、おきき入れなく、いよいよ声音こわね をあららげ給うて、
「聞けよ、そもじたちも。── そもそもは、前非の悔解かいげ を思いたち、法心一 の業として努めた五部の大乗写経浄写ではあったが、都の尺地へすら、容れるをゆる さずとあらば、何せん。── むしろ、経を、魔界になげうって、この身そのまま、日本国の大悪魔となりもして見せんず!」
と、泣きすがる女房たちを突き退け給い、数珠の緒を、 ち切って、あたりへ、投げつけられた。
そして、なお、すさ まじいおひとりごと に。
「やおれ、思い知れよ。われ、魔性とならば、王を って下民となし、下民ろとって王となし、この国に、世々、乱をなさん」
おんみずから、舌を み切り、血をもって、経巻の奥に、誓言を血書あそばしたといわれている。
その日以来、新院には、お髪も り給わず、つめ も切ることなく、柿色かきいろ せたる御衣もほころびに任せ、夜も昼も、ただ悪念三昧に、都の方を呪い、大魔王になって朝廟ちょうびょう の輩に思い知らせんとのみ、祈り祈っておられたという。
都では、院の不穏な御日常を知って、急遽きゅうきょ 、平左衛門康頼やすより を下し、配所の状を、見てまいれといいつけた。
康頼は、おん見舞いと称して、院のお座所へまかり、恐々こわごわ 、おん障子の内をうかがい奉ると、柿色の破れ衣を召され、髪もおどろに、爪長々と生やした紛れもない崇コの君が、落ち窪んだ御眼を、はったと、こなたへ向けて、
「だれだっ。・・・・康頼か」
と、大喝だいかつ あそばしたので、康頼は、身も心も すく んでしまい、なんの奏聞にも及ばず、わななきふるえて、逃げ帰ったということであった。
(讃岐院は、生きながら、天狗てんぐ の姿におなりになった)
などという以後の都の取り沙汰は、おそらくこの康頼や従者などの口から、いいふらされたものかも知れない。
かくて、新院は、まもなく、配所の素莚すむしろ の上に、骨ばかりな肉体をのこ して、うつ からお亡くなりになった。
遠流おんる の日から八年目の、長寛二年の八月二十六日である。
おん年、時に四十六歳。── べつに、勅問、下向使のこともなく、白峰の一角で、煙になり奉り、たれ知らぬまに、葬られた。
およそ、人間の子の不幸は、地上、無数といえるが、讃岐で果てられた新院の君ほど、悲惨な御生涯は、まれである。
しかも、ひとたびは、天皇の御位につかれ、金枝きんし 玉葉ぎょくよう に、肉親の御縁も多くもたれながら、乞食こじき の子と生まれたよりは、あわれな、非人間的な、そして救いのない御生命の終わりを ── あや しいかび のごとく史上に遺しておしまいになった。
新院、崇コ院、讃岐院、みな同一のお方のことであるが、やがてこの君の崩御のありさまが、一般に聞こえわたると、その当時からして、早くも、
「あれも、院の御怨念にちがいない。これも、讃岐院のたたりであろうぞ」
と、世の乱れにつけ、皇室の御不予につけ、天地異変までも、人びとはしぐそれを言い合った。おぞけをふるって、恐れたものである。
保元の乱がやんで、中二年をおき、すぐにまた、平治の乱が都では起こっていたので、それはまだ新院が御在世中だったにもかかわらず、その後、たちまち、
「ああしたことも、崇コ院のおん のろ いぞよ。生霊いきりょう のなせる業にちがいない」
と、みな言った。
以来、讃岐院の思い出には、長く一種の妖気ようき が伴った。世人の胸にたまらない暗さ悲しさ恐ろしさを植えつけた。人間嫌厭けんえん と、現世地獄観を深くした。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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