〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/28 (木) 白 峰 紀 行 (二)

── こえて、仁安三年の初冬のころ。
白峰のお墓所のほとりに、一人の旅僧が、たたずんでいた。
この秋、都を出て、四国を遍路してきた西行法師であった。── このとき西行自筆の紀行によると、
  ── 白峰といふ所尋ねまゐり侍りしに、松の一むら茂れるほとりに、くひ まはしたり。これなん、御墓にやと、 き暮らされて、物もおぼえず。
むかしは、まのあたりに、見奉りし事ぞかし、清涼せいりやう紫宸ししん の間、百官かしづかれ給ひ、後宮こうきゅう 後坊こうぼううてな には、三千の美翠びすゐかんざし 、あざやかにて、おんまなじり に懸らんとのみ、倖せし給ひしぞかし。あに 、想ひきや、今かかるべしとは。
一天の君、万乗のあるじも、しか くの如し。宮も、藁屋わらや も、果てしなければ、高位も願はしきに非ず。ただ、行きて泊り果つべき、仏果の円満のみぞ、ゆかしく侍る。とにもかくにも、涙ながらに。
よしや君
むかしの玉の床とても
かからん後は
何にかはせむ
西行紀行の白峰のくだりは、なお長文である。おそらく西行は、松落葉の下にひざをかかえ、冬日のうすづくまで、思いを、世の推移や、春秋の人びとに、 せめぐらしていたことだろう。
かれがまだ、院の武者所むしゃどころ 佐藤義清たりし若年のころには、かれ自身が書いているよおり 「眼のあたりに見奉りし事ぞかし」 と、思い出される新院の君であった。否、若き美しき聖天子、崇コ天皇の御代であった。
「・・・・・」
西行のまぶた には、すべてが、幻影のようである。
かれは、宮秘にもいささか通じている。
── この君のこうなった宿命のもと を、遠くたずねると、崇コの御母、璋子 (待賢門院) をめぐっての、白河、鳥羽両院のおん仲たがいこそ、第一のいんが禍因よとお恨みせずにいられない。
また、美福門院の女性的偏質が、いかに、権力欲の亡者たちにとって、乗じやすいわざわ いの門であったかも、心を寒うして、振り返らずにいられなかった。
まことに、邪臣策謀家の、乗ずべき機会と温床が、そこにあった。
いた ましいかな。まことに、時代のごう がなせる犠牲いけにえ の君でお された。余りに、御意志の弱いがために、人為じんい の栄花が必然に生む悪因悪果を、お身ひとつに負い給うて、世の犠牲とは成り果てられた。・・・・」
黄昏たそがれ かかる白峰の小道を、西行は、孤影さむざむと降りて行った。
かれには、今夜の宿のあてもないい。一椀いちわんかゆ が自分を待っていてくれるかどうかも分らない。けれど、心にはなんの不安もなかった。近ごろ世上では、崇コ院の呪詛じゅそ ということが、またしきりに言われ出し、今なお、
(── われ大魔王とならば、王をとって下民となし、下民をもって王となさん)
と、断末魔にいわれたというお言葉などが、耳新しく繰り返され、人みな恟々きょうきょう たるものがあったが、かれには、そんな苦労もなかった。きょうの野菊の歌を、心のなかで推敲すいこう し、あしたの旅の紅葉をおも い、夜の道さえ、楽しくてならなかった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ