〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻
2013/03/27 (水) 松 か ぜ 便 り (三)
ひと年の秋。木の丸御所の上に、月の
冴
(
さ
)
えている
夜更
(
よふ
)
けであった。
その夜も、写経に没頭しておられた新院は、ふと、筆をお
措
(
お
)
きになった。そして、
「・・・・佐ノ局、佐ノ局」
と、お呼びになった。
「
御寝
(
ぎょし
)
ならせられまするか」
局がまかると、いやと、顔をお振りになって、
「宵にも聞こえ。今もまた、聞こえるような心地がする。・・・・
儂
(
み
)
の気のせいとも思われぬ。・・・・あれ、あの
朗詠
(
ろうえい
)
を吹く笛の音よ。・・・・そなたの耳には聞こえぬか」
と、おたずねになった。
佐ノ局も、耳をすました。
── たしかに、外の笛の音である。それはだんだんに、近くに聞こえるように思える。
「夜すがら、この配所の
周
(
まわ
)
りを、ああして、朗詠を吹いてめぐり歩いている者がある?・・・・はてたれであろうか」
「まことに、何やら心のひかれることではございまする」
「そっと、問うてみぬか。かなたの者も、ここの灯を、心当てに、吹いているに違いない。・・・・よも、木戸守の
風雅
(
みやび
)
ではなかろうに」
局は、仰せを奉じて、軒の外へ出た。
木戸の外には、番士小屋がある。鎖のかけてあるそこの戸を、局は、内からほとほとたたいた。ありのままを告げて、彼らの情にすがってみた。
国司や
目代
(
もくだい
)
とちかい、彼らは素朴な同情をもっていた。その者が、新院のお側へ近づくのでなければ、そして短い時間なら、おりふし夜も更けているし、見て見ぬ振りをしていよう ── と、ゆるしてくれた。
やがて、横笛を持って
徘徊
(
はいかい
)
していた
遍路
(
へんろ
)
の若者が、番士について、導かれて来た。
彼は、 そこでの調べに、答えて。
「・・・・はい、はい、わたくしは、法名を
蓮誉
(
れんよ
)
と申しますが、遍路に出ましたのも、ただただ、讃岐に渡って、よそながらでも、配所の君の御無事を仰ぎ、また、この横笛の一
吹
(
すい
)
を、おなぐさめに、お聴え申し上げたい一念のためでございました。── 俗名は
阿部
(
あべの
)
麻鳥
(
あさどり
)
と申し、
伶人
(
れいじん
)
の家に生まれましたが、ゆえあって、新院にお仕えいたして、長の年、都の御所の水守を勤めていた者でございます」
佐ノ局も、麻鳥のことは、かねがね聞いていたので、
「さては・・・・」 と、
転
(
まろ
)
ぶがごとく、屋の内へもどって、新院のおん前に、その通りを奏上した。
「なに麻鳥とや。── おうっ、麻鳥であったか」
燭
(
しょく
)
をうしろに、新院の御影は、そこのぬれ縁の端まで御自身、すべり出られて、ひたと、おすわりになった。
縁の前も横の方まで、ぐるりと池である。木戸までの間に、土橋が一つ
架
(
か
)
かっていた。番の者から、橋を越えてはならぬと言い渡されていたので、麻鳥は、池向うの草むらに、平伏した。
池の水に、月が落ちていた。
「・・・・・・」
かなたの人影、こなたの影。いつまでも、
黙
(
もだ
)
しあったきりである。雨のようになきすだいているのは虫ばかりではない。
「・・・・・・」
新院は思い出された。御運命のかくなる前に、都の柳ノ水の御所で、麻鳥に約された一言を ── である。
(月のよい晩に、いちど、おまえの横笛を聞いてみたいね)
麻鳥はその約束を、いつか、いつかと、誓っていたに違いない。海を越え、危険を冒し、これまで来るには、どれほど辛苦に耐えて来ただろう。── 新院は、
如意
(
にょい
)
山中
(
さんちゅう
)
のことも思い出されて、おん涙がとまらなかった。そして、お口には出されないが、
(
可愛
(
かわ
)
ゆい男よ。・・・・なぜ、身が帝位にあった時に、こういう心根の者を、もっと眼に入れて、王者の
慈
(
いつく
)
しみをかけてやらなかったろうか)
と、過去の御自身を悔やまれた。
遥々
(
はるばる
)
、万難を冒して来て、いま、積年の思いを遂げた麻鳥であったが、月の
廂
(
ひさし
)
と、水明りに、おん人影の
仄
(
ほの
)
かな気配を、池越しに仰ぐと、 「まずは御無事よ ──
草莽
(
そうもう
)
の寸心も、いささかは、届いたことか ──」 と涙ばかり先に立って、胸の想いなどは、口にも出なかった。
彼は、言葉もって言うかわりに、そこで、横笛を吹いた。
笛は、心から心へ、言葉以上なものを語りかける。
細
(
こま
)
やかな感情は持たないような番の田舎武者たちすら、なでということもなく、みな涙をたれた。── 屋の内の歩の
仄暗
(
ほのくら
)
がりに寄り合うていた佐ノ局や女房たちはいうもおろかである。なおさら、新院の御感動はいうまでもない。
やがて月傾いて、人も、灯影も、笛の音も、もうそこになくなった。閉じられた雨戸に、松風がガタガタ鳴るだけだった。おいとまを告げて、振り返り振り返りそこを出た麻鳥の影も、いずこともなく立ち去っていた。
配所八年の間、新院をお慕いして、都からここを
訪
(
おとず
)
れ、そしてお目にかかって帰った者は、彼一人であったという。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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