〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/27 (水) 松 か ぜ 便 り (二)

そこでの御生活は約三年ほどだった。
こえて平治元年、配所は、府中の鼓ヶ岡へ、うつ された。
讃岐の国司庁こくしのちょう から遠くない南方の小山である。監視は、以前に増して、厳しくなった。
前のは、仮配所であったが、鼓ヶ岡のは、恒久的な牢舎として、新たに、土木されたものである。
山を背に、さくめぐ らし、出入りは、一つ木戸だった。中に池をたたえ、池の向うに、風雨をしのぐばかりな黒木造くろきづく りの板屋ぶき が、できていた。
里人は、まる 御所ごしょ とそこを呼んだ。建物は粗末だが、地形じきょう や柵は、一生涯も二生涯も、使えるようになっている。
院は、ここへ移られるとすぐ、すけつぼね へ、こういわれた。
「もう望みは絶えた。ここの作りは、わが墓所のように出来ている」
白峰におられた間は、まだなお、中央の政変でもあれば、都へ呼び戻されまいものでもないと、一 の望みを抱いておられたらしいが、今はと、絶望の御容子であった。
しかも、、以後の都の消息は、都を立たれて以来、知るよすがもなく、書信はもとより、外部との面接は、一切、禁じられていた。
── コレハ海ヨリ陸路クガジ二時ふたとき バカリノ所ニシテ、田畑モナケレバ土民ノ家トテ無シ。小山せば ミタルフトコロ ニ、築土ヲ築キ、中ニオク ヲ一ツ、門一ツヲ建テ、外ヨリ、クサリ ヲサス。
 供御クゴマヰ ラス他ハ、人ノ出入モアルベカラズ、仰セ事アラバ、守護ノ兵ヲ通ジ、目代モクダイ ニ披露セヨトゾ、申サレケル (保元拾遺)
このころから、院には、めっきり、御健康も衰えられ、棘々とげとげ しい御気色がつねにうかがわれた。── 陰湿な山陰の伏屋ふせや にばかり籠られて、陽のめにも当らないため、皮膚はろう より白く、おんまなこ はくぼませ給うて、望郷の鬼、そのものの御相好ごそうごう とはなった。
かしず きの女房が、たそがれ時、魚油の灯皿を架けたわびしい燭台しょくだい を、経机のおそばへ、そっとまい らす時なども ── ふと、すきもる潮風に、院のお姿を仰いで、ゾクと、鬼気におそ われることすらあった。
つぼね よ。今は、秋か、冬か」
そうした時、院のおん眼は、妄念もうねん にみちておられた。
うつつもないお顔なのだ。都の秋を恋い、宮廷生活の冬を想い、そして、ここでこのまま死ぬる身か ── と懊悩おうのうほのお にくるまれておわすらしい。
「── 帰りたい。今いちど、生き身のうちに」
ひいては、つれ なき都の人びとを思い出され、世を呪う御心とならずにいられなかった。
すけつぼね は、この間、あらゆる手づるを頼んで、院の御赦免を、仁和寺の法親王ほつしんのう や、関白家へ、すがってみた。けれど都の空からは、たれの、ただ一片の、便りもあったためし はない。
局は、どうかして院の御心をやわ らげたいと思った。和歌の道をおすすめしても、自然や人生の楽しみを み出られるわけでもない。やはり仏道こそ、瞋恚しんい するのお苦しみを解脱げだつ 唯一のお救いであろうと考えた。
「・・・・そうだ、よういさ めてくれた。忘れよう、忘れよう」
新院も、時には、妄鬼もうき の手から離されたように、卒然と、悟りにちかいお言葉を吐かれる場合もある。
そして、われとわが、心の姿に、
「浅ましい」
と、慙愧ざんき のおん涙をそそいで、終日ひねもす誦経ずきょう 三昧ざんまい に、潮の音や松風とともに、静に暮れる日もあるにはあった。
そうした御発心から、五部ごぶ 大乗経だいじょうきょう を、日課に、写経しゃきょう され始めた。
一筆一筆、大部な経典を、念誦ねんず しながら、根気よく、写字してゆくのである。── と、いつか心が統一され、妄念もうねん も、怨恨えんこん も、執着も、精進の御机に、近づけなくなる。
ここしばらく配所生活は、それ一つにそそ がれた。ほお のお色も良くなり、お心も次第になご ませられ、時には、孤燈を掲げて、写経に、夜を忘れておわすことも、ままあった。
御日課は、数年にわたった。
その間、自己の凡身を懺悔ざんげ し、自己のもう から世にわざわ いした罪を びて、せめて、後世の菩提ぼだい を祈ろうとなさる ── 人間最後のいじらしい落着きにも向かっておられるように見えた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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