そこでの御生活は約三年ほどだった。 こえて平治元年、配所は、府中の鼓ヶ岡へ、遷
された。 讃岐の国司庁こくしのちょう
から遠くない南方の小山である。監視は、以前に増して、厳しくなった。 前のは、仮配所であったが、鼓ヶ岡のは、恒久的な牢舎として、新たに、土木されたものである。 山を背に、柵さく
を廻めぐ らし、出入りは、一つ木戸だった。中に池をたたえ、池の向うに、風雨をしのぐばかりな黒木造くろきづく
りの板屋葺ぶき が、できていた。 里人は、木き
の丸まる 御所ごしょ
とそこを呼んだ。建物は粗末だが、地形じきょう
や柵は、一生涯も二生涯も、使えるようになっている。 院は、ここへ移られるとすぐ、佐すけ
ノ局つぼね へ、こういわれた。 「もう望みは絶えた。ここの作りは、わが墓所のように出来ている」 白峰におられた間は、まだなお、中央の政変でもあれば、都へ呼び戻されまいものでもないと、一縷る
の望みを抱いておられたらしいが、今はと、絶望の御容子であった。 しかも、、以後の都の消息は、都を立たれて以来、知るよすがもなく、書信はもとより、外部との面接は、一切、禁じられていた。
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── コレハ海ヨリ陸路クガジ
ヲ二時ふたとき バカリノ所ニシテ、田畑モナケレバ土民ノ家トテ無シ。小山狭せば
ミタル懐フトコロ ニ、築土ヲ築キ、中ニ屋オク
ヲ一ツ、門一ツヲ建テ、外ヨリ、鎖クサリ
ヲサス。 供御クゴ
、進マヰ ラス他ハ、人ノ出入モアルベカラズ、仰セ事アラバ、守護ノ兵ヲ通ジ、目代モクダイ
ニ披露セヨトゾ、申サレケル (保元拾遺) |
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このころから、院には、めっきり、御健康も衰えられ、棘々とげとげ
しい御気色がつねにうかがわれた。── 陰湿な山陰の伏屋ふせや
にばかり籠られて、陽のめにも当らないため、皮膚は蝋ろう
より白く、おん眼まなこ はくぼませ給うて、望郷の鬼、そのものの御相好ごそうごう
とはなった。 侍かしず
きの女房が、たそがれ時、魚油の灯皿を架けたわびしい燭台しょくだい
を、経机のおそばへ、そっと進まい
らす時なども ── ふと、すきもる潮風に、院のお姿を仰いで、ゾクと、鬼気に襲おそ
われることすらあった。 「局つぼね
よ。今は、秋か、冬か」 そうした時、院のおん眼は、妄念もうねん
にみちておられた。 うつつもないお顔なのだ。都の秋を恋い、宮廷生活の冬を想い、そして、ここでこのまま死ぬる身か ── と懊悩おうのう
の焔ほのお にくるまれておわすらしい。 「──
帰りたい。今いちど、生き身のうちに」 ひいては、情つれ
なき都の人びとを思い出され、世を呪う御心とならずにいられなかった。 佐すけ
ノ局つぼね は、この間、あらゆる手づるを頼んで、院の御赦免を、仁和寺の法親王ほつしんのう
や、関白家へ、すがってみた。けれど都の空からは、たれの、ただ一片の、便りもあった例ためし
はない。 局は、どうかして院の御心を和やわ
らげたいと思った。和歌の道をおすすめしても、自然や人生の楽しみを詠よ
み出られるわけでもない。やはり仏道こそ、瞋恚しんい
するのお苦しみを解脱げだつ 唯一のお救いであろうと考えた。 「・・・・そうだ、よう諫いさ
めてくれた。忘れよう、忘れよう」 新院も、時には、妄鬼もうき
の手から離されたように、卒然と、悟りにちかいお言葉を吐かれる場合もある。 そして、われとわが、心の姿に、 「浅ましい」 と、慙愧ざんき
のおん涙をそそいで、終日ひねもす
、誦経ずきょう 三昧ざんまい
に、潮の音や松風とともに、静に暮れる日もあるにはあった。 そうした御発心から、五部ごぶ
大乗経だいじょうきょう を、日課に、写経しゃきょう
され始めた。 一筆一筆、大部な経典を、念誦ねんず
しながら、根気よく、写字してゆくのである。── と、いつか心が統一され、妄念もうねん
も、怨恨えんこん も、執着も、精進の御机に、近づけなくなる。 ここしばらく配所生活は、それ一つに注そそ
がれた。頬ほお のお色も良くなり、お心も次第に和なご
ませられ、時には、孤燈を掲げて、写経に、夜を忘れておわすことも、ままあった。 御日課は、数年にわたった。 その間、自己の凡身を懺悔ざんげ
し、自己の妄もう から世に禍わざわ
いした罪を詫わ びて、せめて、後世の菩提ぼだい
を祈ろうとなさる ── 人間最後のいじらしい落着きにも向かっておられるように見えた。 |