〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/27 (水) 松 か ぜ 便 り (一)

そのころ京都から讃岐さぬき までの船旅が、どれほどはる けく、わび しく、絶海を行く思いであったかは ──今からでは、想像のほかというしかない。
あの淀川でさえ、その半ばを下って、紅岸こうがん鳥飼とりかい の里や、江口の遊君きみ たちが住む小部落を見出すと、早くも旅愁りょしゅう惻々そくそく と、旅の衣を吹き初めて来たことであろう。
澪標みおつくし の河口を離れて、須磨ノ浦を遠く見、淡路の島影を、波上に望めば、もう家郷百里のおも いであった。
まして、流人船るにんぶね に閉じ込められ、ふたたび都へ帰る日もありやなしやと、揺られ揺られて、昼夜の浪路を、地方武者やこわ らしい番人に護られてゆく新院のお心細さはなおさらであった。日ごろから、宮苑の外にも出られず、海路うなじ の御幸などは、なされたこともないお身は、絶対的な ── 社会からの隔絶感と ── 追放者の寂寥せきりょう とに、お胸のうちを、さいな まれたにちがいない。
おそらくは。── 小さい切り窓のほか、明りも さぬ箱船の内では、朝夕、番士が差し入れる食物も、お口には通らず、不浄の用なども、どうおすまし遊ばしたやらと、思いやられる。史記によれば、讃岐直島を経て、松山ノ津へ着かれるまで、ほとんど、お眠りもとらなかった御容子ごようす であったという。
讃岐松山ノ津とは、今の綾歌郡あやうたぐん 坂出港あたりの地である。
流人船は、八月十五日ごろ、ここへ着き、新院の御身柄は、国司李行の手から、ちょう の属僚、阿野あの 高遠たかとう の手にゆだねられた。
高遠は、庁の野大夫とも呼ばれ、純朴な郷吏ごうり であった、
この数奇さつき 薄命はくめい な旧皇帝を山里に迎え、心からあたたかに、お世話申したようである。
とはいえ、流人るにん たることに、変わりはなく、新院と侍女のすけつぼね 、ほか二人の女房は、ひとまず、松山村白峰の下、長明寺を、配所に当てられ、わびしい月日を、果てなく送るお身の上となった。

思ひやれ 都はるかに 沖つ波  たち隔てたる 心ぼそさを
ここの配所での、御詠の一首である。
和歌といえば、こんどの院の護送は、極力ひそ かに、しかも急に、果たされたこととみえ、籬京のさい、お見送りにも間に合わず、あとで残念がった人びとも、ずいぶん、あったらしい。
その中の一人には、もと院の北面の武者佐藤義清の後身 ── 西行法師もあった。
西行は、院の御母君、待賢門院をよく存じ上げていたし、また崇徳院が、御不遇中の憂さを消すために、 「勅撰詞花集」 だの 「久安百首」 などの御編集をなされたころも、おりおり、御相談にあずかっていた。
歌の道にも、心優しいその君が、 「御謀叛の張本人」 と呼ばれ、浅ましい囚人めしうど と成り果てられたのを見 ── 西行は、どんなに、その君のために、惜しみもし、残念がったことか知れまい。時勢と人心の くところは、いつかは、こんな乱にもなろうとは ── 彼が、出家したころからすでに予測されていたことである。
(もし、一人でも、輔弼ほひつ の良臣がいたならば、こんなことにもなるまいに。ただ一人の真実の人すら、いなかったのか)
西行の思いは、心ある人びとのみな思うことだった。けれど、真実な人間は、みな、朝廟から遠ざけられていた。あるいは、西行や大原の寂然じゃくねん (藤原為業ためなり ) や、その他の例のように、みずから去って、山野に余生を託してしまった。
(ひと目、お名残を惜しむことも出来なかったことの残念さよ。何とか、よそながらでも、きこ えまいらす便りのすべはないものか)
その後、西行は、いろいろ心をくだいた末、兼堅けんげん 阿闍梨あじゃり の名をかりて、院の配所まで、一首の歌を、お送りした。
それも厳禁のことであったが、野太夫の情けで、そっと、女官から院のおん手許へ、届いたのであった。── 西行の歌には、
かかる世に 影もかはらず すむ月を  見るわが身さへ 恨めしきかな 
と、あった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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