〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/25(月)  にん ぶね (三)

伏見ふしみよど のあたりは、びょう として、人煙もまだ開けていない。難波のn津から、海の潮がさかのぼって、おそろしくだだっ広い、そして乱脈な川幅であった。
桂川もここへ落ち、加茂川も押し流されて来、大きな沼だの、よし の島だの、洲の曲線もみだれあい、えん として、まだ太古の水郷の面影を残している。
「おそいのう。時刻は、過ぎたのに」
淀の津に、三艘さんぞう の船を着けて、今朝から待ちもうけている一群の武者があった。
官符かんぷ を受けて、流人受け取りのため、讃岐から舟航して来た讃岐ノ国司こくし 李行すえつら であった。
「や。参りました」 と、舟武者の一人が言う。
「どこへ来た。見えもせぬが」
「いや、あちこちにたたずんでいる農夫や漁師の群が、にわかに、ざわ めいて見えましょうが」
間もなく新院と女官を乗せた牛車は、大勢に護られて、ここへ着いた。
受領方じゅりょうがた李行すえつら は、真っ先に出て、
「官符のお下知とは、一とき の余も、時刻が違った。こちらは、海路うなじ の旅、夜潮や風の都合つごうはか って行かねばならぬのに、こう遅れては、いたく迷惑する。── すぐ、流人たちを、あれなる箱船へ、移されい」
よ、四国言葉も荒々と きたてた。
新院も、三名の女房たちも、うろうろするばかりであった。京のはずれのこの辺りに、名残を惜しんでいる間もない。水夫かこ や舟武者は、もう帆綱の調べよ、かじ の用意よ、と風の中で怒鳴り わしている。
そのうちに、国司の李行と、追立の役人式部重成とが、何か、口喧嘩くちげんか みたいに、いいあっていた。
「なに。護送の兵士が上下三百余人も付いて来られたのか」
「されば、ただの罪人のお送りとはちがうので」
「それにしても、仰山な。たかが新院御一名に、女房三名を」
「ともあれ、御送りせねばならぬ。船の御用意は、何隻あるの」
「見た通り、流人船一そう 。われら警固の武者船二艘。とても、三百人などは乗せきれん。まず、二十名ほどは、受け取ろう。そのほかは困る。乗せようがないわさ」
要するに、相互で、人員の予定違いが起こったのだ。下知状が簡略すぎていたのである。争論してみても始まらない。
やむなく、護送して行く兵は、二十余名に限ることとし、式部重成も、前司保成も、ここで新院に、おいとま を告げ、あとは国司方の手へ、ゆだ ねることになった。
新院は、いとどお心細げであった。けれど今は、地方の一国司の命にも、命のまま従うしかない。重成、保成の二人には、
「今暁からの、おこと たちの情けは、長く忘れないであろう・・・・ありがとう」
と、あつくお礼を、仰っしゃった。
二人は、体じゅうが、恥で、熱くなった。貴尊の中の育ちというものは、こんなにも、生まれたままみたいに素直なものかと驚いた。
仁和寺を立つときも、途中も、安楽寿院の場合でも、情けらしい取り扱いは、何もしていない。心に、。情は動いても、官の聞こえがこわ かった。それを、あのように、礼を言う。世辞や、調子でなく、心から仰っしゃるのだ。
いまに、讃岐ノ国司や、四国の田舎人たちも同じような恥を感じ出すにちがいない。
式部重成と、前司保成は、囚人めしうど たるお人であることも、つい忘れて、地にぬか ずいてしまった。
「むつけな武者どものお見送り、さだめし、お辛かったことでぎざいましょう。われら両名は、ここでお別れ申し上げますが、雑色のおさ兵衛ひょうえの 能宗よしむね が、讃岐まで御供いたしますから、何事をも御不自由なことは、能宗に、仰せ出されませ」
「たとえ、一ようあし に託されて、流されても、ぜひない科人とがびと の身、もう、不自由に思うまい」
「なんぞ、都のうちに、なお、お言伝ことづ てでもしてほしいような御方はございませぬか」
「もしや、光弘みつひろ 法師 (左衛門大夫家弘の子) が、見送りに来はせぬかと、途々みちみち も、よそながら気をつけていたが、ついに見えもしなかった。あの父子に会うたら伝えて給も。・・・・とまれ、つつがなく、ここまでは来たと。そして讃岐へ渡ったと」
ああ、その光弘、家弘の父子も、とうに捕われて、斬罪ざんざい になり、もうこの世の人ではない。新院はまだそれも御存知ないらしかった。── 二人は、胸がつまったが、
「こしこまりました。お会い申したときは」
と、お答えしておいた。
国司李行すえつら を始め、すべて讃岐まで行く者はみな、二艘の船いっぱいに乗り込んで、しきりに、おか に残っている者を、水の上から いていた。
女房たち三名から先に船に乗せ、新院もやがて、重に、手をたす けられて、箱船のうちにはいった。
船底には、荒莚あらむしろ が敷かれ、下部しもべ の用いるようなよるもの や、わび しい木枕きまくら が置いてあった。方一尺ほどな明り窓が、箱屋形の左右に開いているだけで、中は、潮臭く、うす暗く、船虫が、うようよ這い回っているのだった。
勅諚ちょくじょう なれば、船屋形の戸には、くさり を差せ。── そして、ともづな を解いてもいいぞ」
かなたの船は、もう岸を離れかけた。その上から、国司李行が、怒鳴っている。
すると、ひと騒ぎが起こった。流人船の番兵の一人が、船具ととも の箱小屋の間に、妙な小男が屈み込んでいるのを見つけ出したのである。── でたちどころに、えり がみをつかんで引きずり出し、その顔、その姿を、熟視してから、
「この、川乞食め。何を戸惑って、こんな所へ、潜りこんでいやがったか。それとも れは河童かっぱ か。いや河童かも知れないぞ。河童なら河へ帰れっ」
と、ふなべり から、突きとばした。
二艘の船からは、大勢が顔を出してこっちを見ていた。そして、どっと笑った。
水音と、飛沫しぶき に、新院はびっくりされて、小さい切り窓へ、お顔を寄せた。── 見ると、すぐ眼の前の水面に、真っ白なあわつぶが、煮えるような音をぶつぶつ立てている。そのあわつぶの中に、麻鳥が見えた。あの麻鳥が、顔と、手だけを出して、夢中で、何かアプアプ叫んでいた。── 叫びながら、流されて行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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