伏見
、淀よど のあたりは、渺びょう
として、人煙もまだ開けていない。難波のn津から、海の潮がさかのぼって、おそろしくだだっ広い、そして乱脈な川幅であった。 桂川もここへ落ち、加茂川も押し流されて来、大きな沼だの、葭よし
の島だの、洲の曲線もみだれあい、宛えん
として、まだ太古の水郷の面影を残している。 「おそいのう。時刻は、過ぎたのに」 淀の津に、三艘さんぞう
の船を着けて、今朝から待ちもうけている一群の武者があった。 官符かんぷ
を受けて、流人受け取りのため、讃岐から舟航して来た讃岐ノ国司こくし
李行すえつら であった。 「や。参りました」
と、舟武者の一人が言う。 「どこへ来た。見えもせぬが」 「いや、あちこちにたたずんでいる農夫や漁師の群が、にわかに、騒ざわ
めいて見えましょうが」 間もなく新院と女官を乗せた牛車は、大勢に護られて、ここへ着いた。 受領方じゅりょうがた
の李行すえつら は、真っ先に出て、 「官符のお下知とは、一刻とき
の余も、時刻が違った。こちらは、海路うなじ
の旅、夜潮や風の都合つごう も量はか
って行かねばならぬのに、こう遅れては、いたく迷惑する。── すぐ、流人たちを、あれなる箱船へ、移されい」 よ、四国言葉も荒々と急せ
きたてた。 新院も、三名の女房たちも、うろうろするばかりであった。京のはずれのこの辺りに、名残を惜しんでいる間もない。水夫かこ
や舟武者は、もう帆綱の調べよ、舵かじ
の用意よ、と風の中で怒鳴り交か
わしている。 そのうちに、国司の李行と、追立の役人式部重成とが、何か、口喧嘩くちげんか
みたいに、いいあっていた。 「なに。護送の兵士が上下三百余人も付いて来られたのか」 「されば、ただの罪人のお送りとはちがうので」 「それにしても、仰山な。たかが新院御一名に、女房三名を」 「ともあれ、御送りせねばならぬ。船の御用意は、何隻あるの」 「見た通り、流人船一艘そう
。われら警固の武者船二艘。とても、三百人などは乗せきれん。まず、二十名ほどは、受け取ろう。そのほかは困る。乗せようがないわさ」 要するに、相互で、人員の予定違いが起こったのだ。下知状が簡略すぎていたのである。争論してみても始まらない。 やむなく、護送して行く兵は、二十余名に限ることとし、式部重成も、前司保成も、ここで新院に、お暇いとま
を告げ、あとは国司方の手へ、委ゆだ
ねることになった。 新院は、いとどお心細げであった。けれど今は、地方の一国司の命にも、命のまま従うしかない。重成、保成の二人には、 「今暁からの、お汝こと
たちの情けは、長く忘れないであろう・・・・ありがとう」 と、あつくお礼を、仰っしゃった。 二人は、体じゅうが、恥で、熱くなった。貴尊の中の育ちというものは、こんなにも、生まれたままみたいに素直なものかと驚いた。 仁和寺を立つときも、途中も、安楽寿院の場合でも、情けらしい取り扱いは、何もしていない。心に、。情は動いても、官の聞こえが恐こわ
かった。それを、あのように、礼を言う。世辞や、調子でなく、心から仰っしゃるのだ。 いまに、讃岐ノ国司や、四国の田舎人たちも同じような恥を感じ出すにちがいない。 式部重成と、前司保成は、囚人めしうど
たるお人であることも、つい忘れて、地に額ぬか
ずいてしまった。 「むつけな武者どものお見送り、さだめし、お辛かったことでぎざいましょう。われら両名は、ここでお別れ申し上げますが、雑色の長おさ
、兵衛ひょうえの 能宗よしむね
が、讃岐まで御供いたしますから、何事をも御不自由なことは、能宗に、仰せ出されませ」 「たとえ、一葉よう
の芦あし に託されて、流されても、ぜひない科人とがびと
の身、もう、不自由に思うまい」 「なんぞ、都のうちに、なお、お言伝ことづ
てでもしてほしいような御方はございませぬか」 「もしや、光弘みつひろ
法師 (左衛門大夫家弘の子) が、見送りに来はせぬかと、途々みちみち
も、よそながら気をつけていたが、ついに見えもしなかった。あの父子に会うたら伝えて給も。・・・・とまれ、つつがなく、ここまでは来たと。そして讃岐へ渡ったと」 ああ、その光弘、家弘の父子も、とうに捕われて、斬罪ざんざい
になり、もうこの世の人ではない。新院はまだそれも御存知ないらしかった。── 二人は、胸がつまったが、 「こしこまりました。お会い申したときは」 と、お答えしておいた。 国司李行すえつら
を始め、すべて讃岐まで行く者はみな、二艘の船いっぱいに乗り込んで、しきりに、陸おか
に残っている者を、水の上から急せ
いていた。 女房たち三名から先に船に乗せ、新院もやがて、重に、手を扶たす
けられて、箱船のうちにはいった。 船底には、荒莚あらむしろ
が敷かれ、下部しもべ の用いるような夜よる
の具もの や、侘わび
しい木枕きまくら が置いてあった。方一尺ほどな明り窓が、箱屋形の左右に開いているだけで、中は、潮臭く、うす暗く、船虫が、うようよ這い回っているのだった。 「勅諚ちょくじょう
なれば、船屋形の戸には、鎖くさり
を差せ。── そして、纜ともづな
を解いてもいいぞ」 かなたの船は、もう岸を離れかけた。その上から、国司李行が、怒鳴っている。 すると、ひと騒ぎが起こった。流人船の番兵の一人が、船具と艫とも
の箱小屋の間に、妙な小男が屈み込んでいるのを見つけ出したのである。── でたちどころに、襟えり
がみをつかんで引きずり出し、その顔、その姿を、熟視してから、 「この、川乞食め。何を戸惑って、こんな所へ、潜りこんでいやがったか。それとも汝わ
れは河童かっぱ か。いや河童かも知れないぞ。河童なら河へ帰れっ」 と、舷ふなべり
から、突きとばした。 二艘の船からは、大勢が顔を出してこっちを見ていた。そして、どっと笑った。 水音と、飛沫しぶき
に、新院はびっくりされて、小さい切り窓へ、お顔を寄せた。── 見ると、すぐ眼の前の水面に、真っ白なあわつぶが、煮えるような音をぶつぶつ立てている。そのあわつぶの中に、麻鳥が見えた。あの麻鳥が、顔と、手だけを出して、夢中で、何かアプアプ叫んでいた。──
叫びながら、流されて行った。 |