〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/25(月)  にん ぶね (二)

列は、わざわざ洛内らくない に入らなかった。花園から、御室おむろ 川に沿い、西七条、羅生門外と、洛外の悪路ばかり通って来たので。檻車は揺れることはなはだしい。
中には、しとね もなく、莚が敷いてあるだけである。おそらくは、新院も揺られに揺られて、おつむり を打ったり、まろ びかけたり、それに、耐えておいでになったことと思われる。
しかし、ある意味で、こういう翻弄ほんろう に会われたのは、流人るにん門立かどだ ちとして、よいことであった。なぜなれば、いやおうなく、生きるに耐えんとするお心を、もう湧然ゆうぜん と、お心に持たれたことに違いないからだ。
「おう・・・・ここら辺りは、鳥羽の安楽寿院あんらくじゅいんの道ではないか。追立の役人やある。── 保成やすなり 、重成やある」
新院は、小さいのぞき穴に、おん目をあて、おり の中から、急に、叫ばれた。
「牛飼い、牛を止めよ。── しばし、車を止めて給われ」
護送の雑人たちは、高声で雑談したり、ぬかるみではムチを振って、牛の尻をたたいたりしているので、お声にも気がつかなかった。
「やよ。鐘の音もする・・・・鳥羽殿とばでん のおん前を、はや行き過ぎもしよう。・・・・保成よ、重成よ。 が一生の願いを聞け。この車を、しばしとめてくれい」
烈しく、檻の中から、おたたきになった。それで、気がついたか、やっと、牛の歩みが止まった。式部重成と、前司保成の二人は、すぐ駈け取って来て、
「何事に候うか」
と、騎馬のまま、たず ねた。
新院は、はや、おん涙にむせびながら、檻の中で、こう仰せられた。
「ここは故院 (鳥羽法皇) の御墓所、安楽寿院の前ではないか。今を限りのお暇を申し上げたい。・・・・情けぞ。わずかの間、 を、車から降ろし給え」
「さて。── その儀は、どうでしょう?」
重成と保成は、顔見合わせて、返辞もなかった。
新院は、のぞき穴に、お顔の半分を見せて、
「たのむ。・・・・」
と、拝まんばかりに仰せられ、
「いまを いては、ふたたび、父君の御墓所に、ぬか ずく日もあるとは思えぬ。夏、崩御のおん臨終いまわ にも、馳せつけながら、ついに、今生、ひと目のおん別れすら、あたりの人びとにはば まれて、遂げ得なかった不幸な身ぞや。・・・・たのむ。たのむ。・・・・つかの間、御墓所に、もう でさせてくれい」
声涙一つにしての、おすがりであった。
けれど、追立の役人や武者たちは、朝廷の意をおそ れた。また、宣旨の刻限に遅れてはと、官のとがめにも、恟々きょうきょう であった。── 新院はそれを聞かれて、では、車の内からでもよい、車を、近づけて給われと、求めて止まない。
武者、役人たちは、合議の末、近道を行くととな えて、車を、西門から入れて、南門へ り通すことにした。── その途中、故法皇の御墓所に間近いあたりで、車を止めた。牛をながえ から外し、また、檻の入口を開けて、車の正面を御陵ごりょう の方へ向けたのであった。
「・・・・・・」
新院は、車の上で、ひれ伏した。
生まれながら、何たる しき宿命の父子ではあったろう。しかも、身を、十善の主たる帝王の室にうけて。
恥ずかしい、慙愧ざんき にたえない。── これが世の上に立つ人間の父子なるもののかたちでしょうか。父法皇の御霊みたま とて、安楽寿院の地下を出て、まだ、天上に安らいではおいでになるますまい。あなたの御子は、あなたの御子と、都を焦土として戦い、その子は今、羅刹らせつ の車に乗せられて、はるか潮路の遠国へ、流されて行く途中にあります。── 不孝の子崇徳の罪をお許し下さい。
「・・・・・・」
生まれて、子となり父と仰いだ物心の初めからを、思い出せば、新院のおん胸には、そつ然と、運命の悪戯にたいする怒りやら、悔悟かいご やら、思慕やら、無情やら、知恵を本能とが、みだれあって、人間の子には、解決のつかないものが、ただ涙となって、あふれてしまう。
「・・・・いまは、なにを、お びするも、申し上げるも、すべはありません。どうぞ、やすらかに、御冥福ごめいふく 、遊ばすように」
念仏は、解決のつかないものに、解決の妙音を心に聴かせるような落着きをたす けるらしい。十ぺん、百ぺん、数百ぺん。称名しょうみょう を念じているうちに、あたりの松風が、耳、頭、体じゅうを、吹き抜けて来て、新院は何かしら明るく軽々としたお気持になった。
眼を開いて、御陵みささぎ を仰げば、赤松の木々のはだ に、朝のうすら がちらちらかがやき、三層の宝塔は、永劫えいごう塵界じんかい を脱した超人のように、黙していた。そして、そこの千本びさし欄間らんま か、瑶珞ようらく の裏にでも、巣を作っているらしい何鳥かの親鳥子鳥が、無心に、塔をめぐり飛んでいる。新院は、うらやましげに、見惚みと れておいでになった。── 来世らいせ は小鳥に生まれたや ── と、ふとお思いになったのかもしれない。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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