〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻
2013/03/25(月)
流
(
る
)
人
(
にん
)
船
(
ぶね
)
(一)
前の日、
蔵人
(
くろうどの
)
左少弁
(
さしょうべん
)
資長は、この仁和寺に臨んで、
「勅使です」
と、新院のおん前に、朝廷の御処置を告げて、立ち帰っていた。
「明二十三日。
讃岐国
(
さぬき
)
へ、
遷
(
うつ
)
し奉れとの、
綸言
(
りんげん
)
であります。おん支度の暇も、こよい一夜しかありませぬ。なにかと、お名残を急がせられ、迎の人数を、お待ち遊ばすように」
あれ以来、謹慎して、罪を待っておられた新院にも、これは、余りなと、強い衝撃を受けられたらしい。
(・・・・
潮路
(
しおじ
)
のかなたに
流刑
(
るけい
)
とは、流刑とは)
信じられないように、何度も、つぶやかれた。お顔に血の色も
退
(
ひ
)
き、勅使が帰ったあとまで、喪心したように、うち
悄
(
しお
)
れておいでになった。
ここに、御幽居中は、女房たち、三名だけが、許されて、
侍
(
かしず
)
いていた。かの女たちは、こうと知ると、一つ所へ、顔を寄せ合うて、泣き伏した。身も世もなく悲しみ沈んで、
「おいたわしい。・・・・余りといえば、おいたわしい。こんな、むごいお仕置きとは」 と、恨みあった。
「よも、
叡慮
(
えいりょ
)
ではありますまい。だれか、かくまで
執念
(
しゅうね
)
く、新院の君を、憎ませ給うものやら」
「かりそめにも、かつては、万乗の御位に
即
(
つ
)
かれ、きのうまでも、上皇でおわした御方を、ただの罪人同様、流罪にとは」
「まして、主上の御兄君を」
「鬼か、魔か。いまの朝廷には、たれひとり、涙のあるお人もいない・・・・」
泣いても恨んでも、かの女たち三人と、崇徳おひとりのほかには、冷たい壁があるだけである。
泣き
腫
(
は
)
れた眼をしたまま、女房たちが、やがて、
燭
(
しょく
)
をともし、夕
餉
(
げ
)
の
膳
(
ぜん
)
を、おすすめした。
が、新院は、お食欲もなく、
「讃岐へやらるる前に、花蔵院の僧正に会いたいが・・・・」 と、仰せ出された。
仁和寺の計らいで、宵のころ、花蔵院の僧正が見え、忍びやかに、対談があった。
新院のなによりなお心がかりは、一ノ宮
(御子、重仁)
の将来であった。僧正の手もとに置いて、一ノ宮を出家させてくれよ、というお頼みがあったのである。
花蔵院の僧正は、朝廷を
憚
(
はばか
)
って、かたく辞退したが、お断りしきれずに、ついに、引き受けた。この僧正も、泣く泣く夜の暗い廊を退がって行った。
そのほか、伺候する者もない。女房たちは、身まわりの物など、
侘
(
わび
)
しげに、まとめ始めた。そのうち、まだ夜も深い気配なのに、早くも門前には人馬の騒音が聞こえだした。
「はや、迎の兵か」
「そのようにござりまする」
門の外を眺めやると、地獄の迎を思わせるような赤さであった。
松明
(
たいまつ
)
の
油煙
(
ゆえん
)
が、その辺りに立ち込め、武者や雑人のわめき声や、牛車の
軋
(
きし
)
みや、馬のいななきなどが、騒然と、あわただしさを告げている。
門が開かれ、寺中も、僧の足音にみだれ立ち、あちこちに、ほの暗い灯が点々と、数を増した。── と、二人の武将が、新院のおられる小坪に立って、こう言った。
「これは朝命によって、道中の警護をうけたまわる
追立
(
おつたて
)
の役人、
美濃前司
(
みののぜんじ
)
保成
(
やすなり
)
と、
佐渡式部大輔
(
さどのしきぶだいふ
)
重成の両名です。── やごとなき御方とは存じ奉れど、
勅勘
(
ちょっかん
)
の
囚人
(
めしうど
)
なれば、敬語はもとより、何事も、
仮借
(
かしゃく
)
申すわけにまいりません。── お支度が調うたら、早々、あれなる
檻車
(
かんしゃ
)
へお乗りください」
新院は、やがて、武者たちに導かれて、待ち設けている牛車の方へ歩み出された。そして物々しげな
甲冑
(
かっちゅう
)
の兵や、怪しげな刑吏、番町などの男を見られたため、ふと、軽い脳貧血を起こされたのでもあろうか。ア・・・・と低いお声をもらすと、よろめいて、たおれそうになった。
「あれっ。・・・・おあぶない」 と、女房たちは、後ろで、身を
揉
(
も
)
んで叫んだ。それらの女性は、べつの牛車に乗せられ、新院も、牛の引く
檻車
(
かんしゃ
)
のうちへ、抱え上げられた。
かつての
行幸
(
みゆき
)
には、公卿百官を庭上に整列せしめ、騎馬随身を左右にし、
御車
(
みくるま
)
の
轍
(
わだち
)
にすら、玉の真砂が敷かれたのに、これが同じ君の、同じ生涯のうちの出来事だろうか。
夜は、うっすらと白みかけた。この朝、この景色を、道ばたや山門の横で見ていたたくさんな僧侶だの、御室の百姓だの、門前町の男女は、みな、涙を流して、見送っていた。単純ではあるが、なにか世のはかなさや、人間同士の
憐愍
(
れんびん
)
にせかれて、新院のお気の毒さにも泣かされ、自分たちの身にも泣いている涙であった。
「・・・・・・」
麻鳥も、その中に居た。わなわな、
唇
(
くちびる
)
をふるわしていた。ふつうの牛車とちがい、簾はなく、
檻
(
おり
)
のように、板を打ちつけてあるので、新院のお姿は、見えもしなかった。
群集は、程なく、思い深げに、くずれ去った。麻鳥はただ一人、立ち残った。そしてやがて、先に行く警護の後から、一人てくてく歩きだした。どこまでも、どこまでもと、列の後に尾いて行った。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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