「戦
は、これきりで、熄や むでしょうか」 「いや、やむまい」 「まだ、ありそうですか」
と、麻鳥は、おののいた。 「人間と人間が、今のような我欲と、猜疑さいぎ
を捨てないうちは」 文覚は、なお言った。 「子が親を疑い、父が子を信じられなくなり、兄弟も叔姪しゅくてつ
も、いつ仇敵きゅうてき となるか分からない。主従、友人の間さえ、心が許せないとなったら、もう弓矢で戦わなくても、世は、そのまま地獄よ。──
今度の乱は、地獄の火が、人間の中へ吹きだして来たものだ」 「乱は鎮まったように見えますが」 「いや、次の大乱を孕はら
む支度だ。信西入道の苛烈かれつ
無慈悲な政策は、わざわざそれを約すものだ。見よ。都はますます悪鬼外道げどう
の住みかになるぞ。恐ろしいことではある」 「少納言の入道お一人が、お悪いためでございましょうか」 「禍わざわ
いは、遠く深い。ひとり信西のためとはいえぬ。おのれの中にもある。おまえの内にもある。 「はて、わたくしや、あなたの中にも?」 「麻鳥よ、よくよく考えてみろ。人間とは、困った生き物ではないか。こうして和楽わらく
している酒の莚むしろ を、たれかが、土足で狼藉ろうぜき
したら、おまえもおれも、黙ってはいられまい。なた、おまえが大事にしている笛を奪う者があったら、おまえとて、死力で奪と
り返そうとするだろう。── それに、二人は孤独だから、妻子への愛着もないが、あれば、盲愛も生じ、盲愛の余りには、何を考えるか、知れたものではない。── なくてさえ、五情や我意は、やたらに動く。──
釈尊にいわせると、人間とは、一日中に、何百遍も、菩薩ぼさつ
となり、悪魔となり、たえまなく変化している善心悪心両面のあぶなつかしいものだとある。それが貴族から乞食こじき
まで、食い余る者、食えない者、寄り合い世帯の世の中だ。ひとつ間違えば、血を流すのは無理もない」 「では、人間すべてが悪くて、悪くない人間はいないということになりますが」 「──
と、そのくらいまで、人間がみな自分自身を畏おそ
れれば無事なのだが、この文覚からして、それができない。ややもすれば、情に激する」 「腕力が、いけないということですか」 「もちろんだ、けれど、人間にとって、なによりの毒は、権力だよ。権力の魅力というものほど、摩訶まか
不思議な毒はない。この毒を舐な
めた人間が、乱を起こす。あるいは、乱を仕向けられる。── 近くは、宇治の悪左府父子おやこ
。やごとなき御方の左右の臣。見る眼には、艶あで
にお麗うるわ しい妃嬪ひひん
や上臈じょうろう にいたるまでも、権力の中に生かされれば、三歳の幼帝すらも、ときには、権力争奪の傀儡かいらい
になる。── しかも、この権力や名利みょうり
の欲は、世を救おうと称する僧団の山にも、市いち
の商人あきうど 仲間にも、江口えぐち
の遊女のうちのも、乞食の群れの中にさえあるのだ・・・・。あんとも厄介な、おれたち人間ではないか」 初めは、麻鳥の為にといって酌み始めた酒であったが、いつの間にか、文覚は、ひとりで酌つ
ぎ、ひとりで飲み、またひとりで、人間厄介論をしゃべりまくっている。 |