〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/22 (金)  さら (二)

このところ、とが へも帰れないし、昼中は、寝場所にすら困っていたときである。焼け跡の柳ノ水は、格好かっこう な所に思えた。行ってみると、過ぎし日の面影もない瓦礫がれき と半 げの樹木ばかりがながめられ、さしも名園の池泉にさえ、焼けた板切れや、死んだ小鳥などが浮いている。
ところが、柳ノ水のまわ りだけは、たれがしたのか、すっかり清掃されていた。井筒いづつ には、板をならべ、木の葉も舞い込まぬように守られている。
清浄すぎて、文覚は、取り散らかすのが、はばか られた。ふと、すこし離れた所の木の間へはいると、焼け板で囲った乞食の掛け小屋そのままな寝小屋がある。おい を、そこに下ろし、文覚は、むしろの上に、寝そべった。
高いびきをかいて、いつか、眠り落ちていた。 「もし、もし・・・・」 と揺り起こされて、ふと、見ると、もうひる ごろの高さ。── そして、約束して別れた小男が、そこらにあった板切れをぜん として、かしわ の葉や、桐の葉などを、さら として、いい 、塩魚、漬物つけもの生味噌なまみそ など、幾種類もの食べ物をならべ、
「上人さま。おとき です。・・・・どうぞ召し上がってくださいまし」
と、地にかしこまって、額ずいていた。
文覚は、彼の鄭重ていちょう さと、木の葉の皿の食物とを見比べて、ああと、なにか感声をもらし、泣きそうな瞼瞼まぶた になった。
「これは・・・・。これはお前が、乞食して、家々からもらい集めて来たものだろう」
「お隠しはいたしません。その通りです。・・・・けれど、一りゅう の御飯も、漬物の一切れも、不浄な物では決してございません。── 貧しい裏街の、自分自分も食べかねるお人ほど、ささ やかをわけて、この乞食へ賜るのでございました。経読むすべも知らない物乞いでございますゆえ、ただ軒ばに、手を合わせて、いただいて来ましたが、それが、あなた様のような仏身のおかて となれば、わたくしのよろこび、また、くだ された方たちの、報謝のお心も届きましょう。・・・・どうか、召し上がってくださいまし」
「・・・・」
文覚は、達磨だるま 尊者そんじゃ みたいに、口をむすんだきり、いつまでも、返辞をしなかった。いや、答えられなかった。
が、彼は、やっと決意がついたように、はし へ手をのばした。
「いただくよ。ありがたく」
「さあ、どうぞ」
「おまえも食べていないにちがいない。── いや嘘だ。食べておるまい。おまえも食べてくれ」
乞食の小男は、首を振った。けれど、余りに いられるので、彼もともに、はし を持った。ぽそぽそと、小鳥と小鳥が、ついば むように、仲よく、噛みしめた。
「── 麻鳥あさどり さん。お水守の麻鳥さん」
すると、この焼け跡に近い家の召使でもあろうか、小桶こおけ を手に提げた女童めわらべ が、かなたの柳ノ水のそばから、呼んでいた。
「おお、蓬子よもぎこ さんか。お水かね」
「え、また、井の水をいただきに来ました。どこへもらいに行っても、常盤よきわ 御前ごぜ の家の者などに、水はやれぬと、断られます。── かき の内へ、石を打ちつけて通る人さえあるのですから」
「お待ち。いま、汲んであげる」
麻鳥は、駈けて行った。
戦乱で、使えなくなった井戸が、あちこちにある。兵士たちが、物を投げ入れたり、死骸しがい を捨てたり、不気味な話が、多かった。
女童めわらべ の主の家も、そうしたことで、もらい水をしているものとみえる。いま、文覚が小耳にはさんだ常盤御前といえば、源義朝のおももの と、たれも知らぬ者はない。父の首を差し出し、数人の弟を斬って得たものが、 馬守まのかみ の官位よと、庶民は、つば するように悪評している時なのだ。── 何も知らない召使の女童までが、街で憎まれ、水さえ快くくれるところがないというのも、ありそうなことよ ── と、文覚は、麻鳥が、水を汲んでやる姿を小屋からながめていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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