〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/21 (木)  さら (一)

探し出されては首を ねられる人びとが、その後も、なお絶えなかった。総じて、この乱に死罪となった公卿武人は、もう百人をくだるまいと言われていた。
末路を奈良の般若野はんにゃの に終わって、野末に けて捨てられていたさき の左大臣頼長のかばね すら、滝口たきぐち の武者を派して掘り起こし、その死を、確かめたほどだった。
「もし、今なお、北面の武者盛遠でいたとしてら、自分も必ず、死者の空骸むくろ をすら掘りあばく者の手先か、さもなくば、河原に首をさらした一名に数えられていたに違いない。・・・・思えば、袈裟けさ じょ は、自分にとって、ふしぎな菩薩ぼさつ の化身でおわした。ああ、袈裟よ」
文覚もんがく は、今なお、恋を、捨てていない。
邪恋は った。悲恋の古傷はいや した。肉体と精神に耐えうる限りの罪のつぐな いもした。── が、袈裟けさ 菩薩ぼさつ は、彼の心の本尊であった。
今宵、彼は、六条の河原に火を いて、ひとり八月の夜を、明かそうとしている。
いや、一人ではなく、袈裟と二人で。
仏弟子は、弥陀みだ と二人づれというが、彼は、袈裟と二人連れだった。袈裟けさ弥陀みだ 。彼はいつも、さび しくない。
「そうだ、夜の明けぬ間に」
彼は、筆を持った。
河原の小石の一つ一つへ、南無阿弥陀なむあみだぶつ を書いてゆく。ここで死罪になった者の施餓鬼せがき を思い立ったのである。称号を小石一万個に書き、岸の路傍に積んでおけば、道行く人が、それを見て、石を拾って水へ投げ、念仏してくれるにちがいない。
自分ひとりの念仏は、自分のためでしかないと思う。諸人とともに “あわれ” を観じてもらいたい文覚の所願であった。
今夜で三日目であった。近ごろ、昼は歩けない。信西入道が、自分の逮捕を下吏に命じたと聞いている。それでなくても物騒な都だ。油断は出来ない。
称号の間には、ときどき、過去の亡友の名も書いた。かの人は、いかに。あの友はなお生きているやら。── 加茂川の水音はいつも変わらないが、何と、ここわずか十数年のまの人の流転るてん よ。ああ輪廻りんね 。何もかもかたち あるものは盛衰をまぬかれない。輪廻の外に生きる工夫くふう が大事だと思う。
「── 少し、残った。明日の夜とするか」
筆とすずり を、おい に納め、流れで顔を洗って、立ち去ろうとした。
すると、後ろから、 いて来る人影があった。夜は白みかけていた。どて へ上ると、後ろの者も上って来る。
振り向いて、わざと見ると、うす汚い小男だ。
「ははあ。放免ほうめん (密偵) だな」
さっそくに、そう思ったが、文覚が歩きだすと、小男は、近づいて来て、
「ありがとうございます。・・・・この河原といわず、あちこちで、あえなく くなったたくさんなお方が、さだめし、うかばれておりましょう。ありがとうぞんじます。どうも、ご苦労様でございます」
くり返し、くり返し、小男は、心から礼をいうのである。そして、人なつがしげに、文覚の法衣ころも の袖にくっついて来る。
「おまえは、この辺の市人いちびと か」
「いいえ。・・・・」
「何が、そんなにありがたい?」
「同じ思いを、あなた様が、して下さいました。世の中に、ひとつ思いの人があるのを知ったときほど、嬉しいものはございません」
「そうか、では、死罪になった新院方の召使でもあったのか」
「・・・・ま。似たような身の上の者ではございますが」
「無心がある。わしに布施ふせ せぬか」
「あいにくと、身に何ひとつ、持てる物とてございません。けれど、生命いのち のほかの物ならば」
「あははは。なんでもくれるか・・・・」
と、文覚は、小男の姿を、朝の光に、じろじろ見直した。なる程、こじきだろう。はかま とも直垂ひたたれ ともいえないボロをまとい、烏帽子えぼし なしの頭は、ほこりとチリの巣というしかなく、足に草鞋わらじ さえ、 いていない。
「申しにくいな。おまえには」
「いえ、仰しゃってみてください。もし、あなた様に、してあげることが出来るものなら、それは私の、今日の一つの喜びになります」
「そう、大げさなことでもないが、一飯の施与にあずかりたいのだ。じつは、昨夕ゆうべ も食べてない」
「ア。・・・・御飯ですか」
小男は、当惑そのもののような顔をした。いかにもいいにくそうに、 びていうには、
「じつは、わたくしも、いくさ の後は、宿なしで、今朝の御飯のあてもない者です。毎日、乞食こつじき して、露命をつないでおりまする。・・・・けれど、後程までに、必ず、御坊のお食事を調えて参ります。── 三条柳ノ水の焼け跡で ── あの御所の井戸のそばで、わたくしが参るまで、お待ち遊ばしてくださいませ」
文覚は、大いに後悔した。あわてて止めた。しかし小男は嬉々として、もう街の辻を、曲がって行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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