〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/19 (火) い か ず ち 雲 (二)

一天の夕立雲に、 時計どけい の投影も、見ることが出来ない。
さっきから、余りな忠正の形相と呪いに、刑には れているはずの庁の下官や下部たちも、はだ をそそけさせて立ちすくんでいたが、ポツーと、顔に痛いほどの雨つぶを感じると、一せいにいいあった。
さる ノ刻です。播磨どの。もはや、申ノ刻を過ぎましょう」
「おおっ」
清盛は、夢中で言った。強弓を張るような意力で腰を立てた。
かれが立つと、忠正の眼も、上へつり上がった。かれが、、横に歩むと、忠正の眼も、横に動いた。
「時忠っ。太刀を、 れっ」
「よいのですか」
時忠も、いつになく、二の足をふんでいた。しかし、ただちに、陣刀を引き抜き、
(・・・・どれから?)
と、いうような眼をして、清盛の真っ青な顔に、眼でたずねた。
「── 端から」
指さされた時、長盛の顔が、とたんに、きっと、清盛を振り向いた。清盛は、思わず、眼をそらして、
「早くしろ。時忠、ひる むか」
と、なじった。
「なんの!」
声の下に、異様な音が、人びとの耳を打った。血と刀のうなりが一つの震音を空間に起こしたものであった。それは濡れ雑巾ぞうきん でもたたきつけたように聞こえた。
「わっ。長盛っ。果てたか」
忠正のいる所から、こう叫びが走った時には、もう、端から、その次の座に、また同じ血響きが、起こっていた。
「・・・・忠綱よっ。忠綱っ」
雷鳴は、すぐ頭上に来ていた。
雲の上でする声か、地上のものか、けじめがつかない。
親の忠正の絶叫が、邪魔になって、太刀取りの時忠は、三人目を斬りそこねた。
── と思うと、時忠は、自己の魂を、取り落としたように、突然、うつろな顔つきに変じて、ウロウロ、地上を見まわし始めた。
「おいっ、どうした。時忠っ、何をいたしておるか」
「水を・・・・水を一杯飲んでから致します。急に目眩めくるめ いてきて、妙に、その・・・・手もとが定かにつきませぬゆえ」
「血に酔うたな。意気地のないっ・・・・よしっ、おれがする」
清盛は、癇癪かんしゃく を起こして、大股おおまた に、何歩か歩き、忠正の横に立った。
忠正が、仰向いている。
清盛は、それを、平然と、眼下にした。
平常の感情の限界を、かれの感情は、駆け抜けていた。
そこまで突き抜けてみると、白々しろじろ と冷たい虚無の空間しか見まわせなかった。狂人のつねに住む世界に似ている。頭のしんも、じいんと冷たい。いやその冷たさは、熱度の極に達している無知覚と同じものかも知れなかった。そして、清盛はその頭に中で、さっきまでとは別人のように笑って、忠正を見下ろしていられる自分を、ふしぎともせず、支えていた。手に、白刃を、ひっさげて ──。
「右馬助どの。もう何か、仰りたいことはないのか。お首は、清盛が、つかまつ ろう」
「ふム。・・・・やれるなら、やれ」
昂然こうぜん と、忠正は、いい払った。
うなじ を、さし伸ばすのが法である。が、かれは、反対に、胸をそらした。まだ、斬るなと、断っている態度ともいえる。
「虫が好かぬとは、争われないものだ。そもそも、まだ稚児立ちごだ ちのころから、何となく、気にくわぬ平太清盛であったぞよ。思えば、こういう宿命であったのか」
「そうでしょう。清盛も、若年から今日まで、およそ、あなた程、きらいな人間は世になかった」
「雪と墨ほど、性の合わない叔父おじ おい であったのだろう。おれは敗れた。片腹いたいその甥小僧の手にかかって死ぬ。無念というも、なお足りぬ」
「悟られたか。これがいくさ だ」
「いや、輪廻りんね だ ── 次には、平太、汝の番だぞ」
「お待ち下さらなくてもよい。さ・・・・御用意は」
「急ぐな。もう一言、いい遺しておくことがある。平太平太」
「なんだ、何をまだ」
「さすがに、なんじは、よう似たぞ。悪僧の血は、あらそえぬ」
「な、なに。似たとは、たれに」
「父親にだ」
「たれに似ようが、似まいが、おれの親は、忠盛どののほかにはない」
「いや、ある。わしは兄の後家、祗園女御から、懺悔ざんげ を聞いた。 ── なんじは兄忠盛子でもなく、いわんや、白河の君の御子でもない。まことは、女御が密夫みそかお の八坂の悪僧がたね だということを」
「や、やかましい。くたばれえっ」
清盛はいきなり、太刀を後ろへ引いた。まだしゃべ っていた忠正の首の根を、びゆっと、すくい打ちに、白い光が通り抜けた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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