〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/19 (火) い か ず ち 雲 (三)

「・・・・・」
あけ に染んだまま、清盛は、だらんと、太刀をぶらさげていた。茫然ぼうぜん と、いつまでも、突っ立っている。
チカチカとひとみ の底を、稲妻が、走った。雷が、鳴っている。おどろおどろ、晦冥かいめい が、はためく。かれの自失を、足の裏から、ズンズン、と何かが り上げてくる。
「ばかっ、ばかっ」
「気狂いっ。獣っ」
「人でなしめ」
「畜生よ」
これは、雷鳴とはちがう。あきらかに、庶民の感情だ。群衆の声だ。──声とともに小石の雨が、清盛のまわりに、ばらばらと飛んで来た。
「・・・・・」
清盛は、避けもしない。石は、やたらにかれに当たった。具足は着ているが、顔や手先に血をにじみ出した。
群衆の怒号は、ざわ めきをたかめるほど、意味も聞きとれなかった。だが要は、清盛が、叔父手をかけ、叔父の子三人までも、並べて討ったことを憤慨したものらしい。世に見たくない光景を見てしまった不快さに、憎悪を燃やして、ののしり沸いているのだった。
しかし、清盛の郎党たちは、当然、身を飛ばして、八方の群集へ、刃を向けて行った。そのため、群集は一ときの狂奔を示しただけで、わっと、蜘蛛くも の子のように、逃げ散ってしまった。しかし清盛はなお茫然ぼうぜん と、四つの死骸しがい のそばに、棒立ちになっていた。
その姿へ、沛然はいぜん と、まっ白な夕立が、降りそそいで来た。
東山の塔を、斜めに裂いた青白い電光いなびか りの中に、かれの影は、なおまだ、もとのままに見えた。太刀をぶらさげ、全身を雨に打たせながら立っていた。
「殿。・・・・殿っ」
靫負庁ゆきえのちょう の役人たちは、みな帰りました」
「見物どもの影も、はや、一人とて、見えもしません」
「つつがなく、お役儀は、果たされましたものを」
「いざ、お帰りを」
郎党たちは、かれのまわりに、うろたえを集めて、しきりに帰館をうながした。清盛は、ようやく、堤の上へと歩いた。そして、狂雨一過の れ間を見上げて、しばらく、口のうちで念仏をとなえていたが、
「時忠、時忠」
と、静かに、呼んだ。
それは、平調な声音こわね で、つねのかれと、変わるところはなかった。郎党たちも、時忠も、ほっと、まゆ をひらいた。おりふし、空には、夕虹ゆうにじ がかかった。悪夢からさめた思いを一つに、時忠たちは、こま をひいて、清盛の前に、並んだ。
清盛は、馬の口輪を、引き寄せながら、時忠をかえりみて、こう言い残した。
「おまえと郎党五、六人は、あとに残れ。四人の亡骸なきがら を、ていねいに、とり 辺野べの火舎ほや へ、運ばせるのだ。おれも、やしきで通夜をしよう。とむら いのこと、そっと、頼むぞ」

少納言信西は、待っていた忠正の首を、その夜に見た。
右少弁惟方これかた の下官が、六条河原から、すぐこれへもたらして来た四つの首桶くびおけ を、庁の燈火の下にならべて、
「よろしい」
と、言った。
そして、六条河原での忠正の最期さいご の状や、清盛の容子ようす だの、その手間取り方を、仔細しさい に下官から聞くと、
「あはははは。さようか。人まさに死なんとするやそのげん しというが、そうばかりでもない忠正のように、妄執もうしゅう を毒づいて往生際おうじょうぎわ の悪い者も、まれにはある。さてさて、播磨守は小心者よの。── あれでよく、過ぐる日の合戦に、白河北殿の門へ、寄せられたものだ」
と、愉快そうに、ひざを打って、大いに笑った。
── 次の日である。
信西は、高松の一室に、こんどは、源義朝を招いていた。そして、いつもの低い声で、 「左馬頭どの。播磨どのには、昨夜、叔父忠正の首を打って、さし出されておらるるぞ。忠誠明白、感服にたえぬ。・・・・時に、新院方の謀反むほん にん としては、忠正よりも重職にあり、かつは子息六人も「具して、大将軍の采配さいはい を取った六条為義の行方は、その後、どう詮議せんぎ しておられるか」
と、たずねた。
ことばは、ものやわらかく、懇ろである。── が、義朝の胸には、ぐざと、矢が立ったような思いが煮えた。さっと、顔の色も失った。
「はい。鋭意、諸方を探し求めてはおりますが・・・・。何ぶんにも、まだ、手がかりが、ございませんので」
「合戦に続く、追捕の御苦労、ちょう においても、お察しはしておるがな」
「なおなお、草の根をわけても、かならず、召し捕らえはいたしますが」
「・・・・が、とは?」
義朝は、面伏おもぶ せだった。入道は、うわ眼づかいに、ぬすみ見ながら、
「せっかくの御軍功も、にお わしいところ。ぜひ、もう一倍、努められい。── ひとり、播磨守のみに、誇らしめず、一日も早く、御辺の忠誠も、事実をもって、ちょう におあか しあるようにの」
信西のはら は問うまでもない。清盛が、叔父にしたように、義朝にも、せよというのである。父為義を捕らえて、その首を差し出せという慫慂しょうよう なのだ。どうして、平静でいられよう。
その朝、義朝は、戦後初めて、疎開先の田舎から都へ戻って来た常盤ときわ の家で、彼女の無事や、幼子おさなご たちの、顔を見てやる約束になっていた。心は暗く、足も重い。まったく、気のすすまない日ではあった。けれど、つかの間でもと、道をまわって、その帰りみち 、常盤のかど に、駒をつないだ。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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