〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/18 (月) こく ごう びやく しん (二)

忠正は、おそく、眼をさました。
入れられた下部しもべ 長屋の一棟一棟ひとむね は、粗末で、薄暗いが、夕べは、薬湯やくとう も与えられ、かゆ も腹いっぱい食べ、まずこれで、命だけは助かろう ── と、ぐっすり寝込んだ今朝なのである。
朝の食事も、美味おい しかった。
彼にも、子がある、しぐ子を思う。
長男の新院蔵人長盛、二男の忠綱、三男正綱など、ちりぢりに、戦場を紛れ落ちたが、つか まったか、討たれたか、それとも、いずこの空にいるやら ──
と思いやる。
「右馬助どの、お すか」
たれか、うかがうように、入って来た。
忠正は、理由なく、ぎょっとしたが、凝視すると、三十四、五かとも見える良い武者である。身内とは思えるが、清盛とは、似ていない。
「おる。── おるが、だれだ」
忠正は、強いて、威を張って答えた。
非蔵人ひのくろうど 時忠です」
「お、御台盤所みだいばんどころ の御舎弟か。はからずも、おい の播磨どのの情けにより、思わぬひさし の下に、助けられる身となった。何かと、お世話を頼み入る」
「いや、心得ました、もののふは、終わりこそ大切です。もし、ひげも りたし、おぐし も上げておかれたい思し召しなれば、その間、しばらく、お待ちしておりましょう」
「お待ちして・・・・とは、どこか、他所へこの身を、移されるのか」
「それは、後刻。── 今は、おなわ だけをかけに来ました」
「えっ、縄を。た、たれの、いいつけで」
「もちろん播磨守さまの、おさしずで」
「そんなはずはない。播磨どのを、呼んでくれい。話が、違う」
「いや、参られても、同じことです。今朝、すでに、官の下文くだしぶみ が達しられ、右馬助忠正の首、さる の刻 (午前四時) までに、打ち わるべしと、お沙汰さた は、決まっているのですから」
「げっ・・・・」 と、のけ って、 「ば、ばかなっ。そんなはずは」
と、立ちかけるのを目がけて、時忠が、ばっと、組みついて行ったと思うと、板敷きが音を立て、二人は、諸仆ものだお れに、重なっていた。
物音を合図に、どやどやと武者七、八人が混み入って、難なく、忠正に縄をかけてしまった。
「甥を呼べ。甥の播磨を、これへ連れて来い。このあわれなる老人を、だますという法やあるっ」
忠正は、わめきつづけた。
けれど、外の戸は、打ちつけられ、番の兵士だけをおいて、時忠は、さっさと、どこかえ立ち去ってしまった。
清盛は、今朝から、たち の一室にすわりこんでいた。昨夜の信西入道の言葉を、何度、頭に繰り返してみたかもしれない。が、依然として、 えて来ない。
「── 義兄あに 上、致してまいりました」
「や。時忠か。何か、 えたか」
「くどくど、わめきました。お年に似もやらず、往生際のお悪い老人です」
「いや、こうなるなら、初めから、情けをかけずに、いきなり縄を打った方が、まだ、罪が軽かったよ」
「何を、仰せられます。罪人は、右馬助。── 軽いも重いも、殿に、罪のあるはずはありません」
「今し方、官から届いた下命の状を見たか」
「拝見しました。さる の刻、六条河原において、刑をりょう せよとの」
「忠正どの一人の処分ですら、夜来、心を病んでいたのに、なお、他所で召し捕っておかれた忠正の子、長盛、忠綱、正綱などの三名をも、同時に、河原で れとの御示達だ。── 信西どのも、ちと、むごい」
「なんの、合戦の日には、草鞋わらじ が、血泥ちどろ で重くさえなりました。これしきのこと」
いくさ は、ちがう。戦はな」
「これが、戦です。申の刻の六条河原も、どうして、戦の外のことでしょう」
「ア、そうか、うむ・・・・」
時忠の単純さは、かえって、信西入道の理詰めよりも、清盛の気持を、軽くした。割り切れないまでも、雑念は、片づけられる。
「昼寝だ。寝ておこう。まだ、申の刻には、間がありすぎる。── 時忠、まくら がわりに、あそこの、手筥てばこ を取ってくれ」
清盛は、横になった。
そして、寝ながら、大殿廂おおとのひさし をこえて、夏の空をふと仰ぐと、はや い雲が、しきりに太陽の面をかすめ、急に暗く、また、かっと明るく、地上に強烈な黒白を明滅させいぇいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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