〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/18 (月) こく ごう びやく しん (一)

あるじ の入道も、真っ赤。清盛はなお、真っ赤な顔をしている。
二人とも、酒はそう強くないのに、ちょうど、信西入道の妻、紀伊ノ局も、美福門院びふくもんいん から数日の暇をもらい、ここに帰っていた夜なので、
「勝ちいくさ の、お祝いに」
と、ひどく派手に飲み合ってしまったものである。
── といって、談笑の間には、機密のことも、つい口に出るので、紀伊ノ局のほかは、女房たちも、室へ入れなかった。時節がら、管絃かんげん などは、まだ早いし、酔うほどに、話しは二人だけの契合けいごう を、強めていた。
ることですな。断じて、斬るべしですよ。── 御辺のような弱気では、到底、天下を処理する仕事は出来ぬ」
信西入道は、いくたびも言う。
いや、清盛の、ともすれば、思案顔に落ちるのを、叱咤しった し、励ますが如き、口吻こうふん なのである。
「忠正どのは叔父おじ だからと ── 御辺は血縁を気にするが、かつて、その忠正の方から、義絶すると、言い渡されたこともあるということではないか」
「そうです。神輿事件のるい を怖れて。── あのおりにです。しかも、その朝、以後はあかの他人だぞと」
「しからば、すでに、縁はありまいがの」
「・・・・が。血は、つながって、おりますゆえ」
「はてな。血が?」
信西は、まじまじと、清盛の酔眼を、酔眼で見つめながら ──
「そうかなあ。御辺の、まことの父君は、忠盛どのではなく、白河法皇でおわすとのみ、信西は、思うていたが」
「ええ、白河法皇であるぞとは、父忠盛も、死のまぎわに、暗示めいた扇をくれて申しました。・・・・けれども、法皇はわたくしを生みっ放しです。零余子ぬかご の一つぶくらいにしか思っていられなかったでしょう。忠盛どのこそは、真の人にまさる父親です。忘れ難い大愛の父。── その父たるお方の弟なので、どうも、考えると、忠正どのを、縄目なわめ にかけることも、斬ることも出来ません」
「あははは。・・・・あ、は、は。いやどうも、御辺ごへん は、余りに人がよすぎるよ。──紀伊。そなたは、播磨どのの屈託くったく を、聞いていたか」
妻の顔を、かえりみて、信西はなお笑いやまなかった。
「いいえ、伺っておりませんでしたが、何を、そのように、お迷いになるのでございますか」
「聞くがよい。── 今夕、播磨どのが、妙に、力のない面で、訪うて来たゆえ、いかなる心配ごとやあると、 いてみると、自分の軍功を御返上してもよいゆえ、右馬助忠正を助けて給われと、いと、しおらしげに、言うではないか」
「まあ。・・・・では、忠正どのは、甥御おいご という縁をたよって、六波羅に参られているのでございますね」
かく もうたうえ、思案にあぐね、この信西に、朝廷へのおとりなしを、わざわざ頼みに見えられたのだ。── ばかなと、そこで、わしがしかったわけじゃよ。お許は、どう思う」
「さあ、わたくしには」
「いや、女性にょしょう の身の、お許ですら、美福門院様の思し召しをかなえ、かつは、 鳥羽の君の御遺詔を立てるためには、裏面において、あらゆる辛い働きもして来ているではないか。平家一族の武者頭ともある播磨どのの女々めめ しさを、笑うてやるがよい」
「や、信西どの、お内方うちかた にまで、笑われては、清盛、立つ瀬もありませぬ。──ですから、先ほどより、申し上げておりましょう。もうはら は決め申したと」
「・・・・が、なお、どこやら、沈湎ちんめん と、思い迷うらしいふう が見える。顔は酔うても、心まで酔うてはおられぬ」
「愚痴なるかな、この凡児ぼんじ 。どうもなかなか、自分が割り切れません」
観経かんぎょう を読まれたことはないか。観経にいわく、劫初ごうしょ このかた、父を殺す悪王一万八千人、されど、今田母を殺す子なし、と説いてある。なぜかといえば、異朝のもろもろの悪王が、国位を奪うためであった。── が、、御辺の場合は、大いに違う。忠正は、大逆の賊、御辺は、朝命を奉ずる臣。しかも、義絶のあいだであり、しん には、血もつながっていない者ではないか」
「わかりました。やります。もう、迷いませぬ」
「愚だ。このとき、忠正を斬らぬなどは、御辺ごへん 一個の、煩悩ぼんのう にすぎぬ。もし、助けて、遠国へ放ちでもした後、地方の平氏を集め、ふたたび族党をかた めて、勢力を伸ばして来たら、御辺にとっても、ゆゆしいわざわ いにならぬこともあるまい」
「げにも、小胆なわたくしでした。朝命をいただけば、明日でも」
「ウム、早いがよい。もし、 詮議せんぎ の右馬助忠正が、六波羅内の内に、匿われておるなどと、世間にでもふと漏れたら、それこそ、播磨どのの一身のみか、一族の大事となろうに」
「誤りました。まこと、その一事だけを思うても」
清盛は、はら を決めて、姉小路の信西入道の館を辞した。── 馬上となって、夏の夜風に吹かれると、どうしたのか、反対に、グラグラと、悪酔いにつきあげられた。酔いきれずにいた酒が、一時に発したものでもない。彼の頭の中に、もう明日のいやな光景が描かれていたのである。── 叔父の首を斬って出す ── 。 どうも豁然かつぜん と、なりきれない。楽しくない。怏々おうおう という気持である。
「おれは、生来の、臆病おくびょう 者かしらて。きらいといえば、このうえもなくきらいな叔父なのに、いや、叔父でもない忠正なのに。・・・・どうしてだろうか」
五条大橋を渡るにも、首を振り動かしてみたり、こめかみをたたいたりして、ひどく えない馬上の人であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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