主
の入道も、真っ赤。清盛はなお、真っ赤な顔をしている。 二人とも、酒はそう強くないのに、ちょうど、信西入道の妻、紀伊ノ局も、美福門院びふくもんいん
から数日の暇をもらい、ここに帰っていた夜なので、 「勝ち軍いくさ
の、お祝いに」 と、ひどく派手に飲み合ってしまったものである。 ── といって、談笑の間には、機密のことも、つい口に出るので、紀伊ノ局のほかは、女房たちも、室へ入れなかった。時節がら、管絃かんげん
などは、まだ早いし、酔うほどに、話しは二人だけの契合けいごう
を、強めていた。 「斬き
ることですな。断じて、斬るべしですよ。── 御辺のような弱気では、到底、天下を処理する仕事は出来ぬ」 信西入道は、いくたびも言う。 いや、清盛の、ともすれば、思案顔に落ちるのを、叱咤しった
し、励ますが如き、口吻こうふん
なのである。 「忠正どのは叔父おじ
だからと ── 御辺は血縁を気にするが、かつて、その忠正の方から、義絶すると、言い渡されたこともあるということではないか」 「そうです。神輿事件の累るい
を怖れて。── あのおりにです。しかも、その朝、以後はあかの他人だぞと」 「しからば、すでに、縁はありまいがの」 「・・・・が。血は、つながって、おりますゆえ」 「はてな。血が?」 信西は、まじまじと、清盛の酔眼を、酔眼で見つめながら
── 「そうかなあ。御辺の、まことの父君は、忠盛どのではなく、白河法皇でおわすとのみ、信西は、思うていたが」 「ええ、白河法皇であるぞとは、父忠盛も、死のまぎわに、暗示めいた扇をくれて申しました。・・・・けれども、法皇はわたくしを生みっ放しです。零余子ぬかご
の一つぶくらいにしか思っていられなかったでしょう。忠盛どのこそは、真の人にまさる父親です。忘れ難い大愛の父。── その父たるお方の弟なので、どうも、考えると、忠正どのを、縄目なわめ
にかけることも、斬ることも出来ません」 「あははは。・・・・あ、は、は。いやどうも、御辺ごへん
は、余りに人がよすぎるよ。──紀伊。そなたは、播磨どのの屈託くったく
を、聞いていたか」 妻の顔を、かえりみて、信西はなお笑いやまなかった。 「いいえ、伺っておりませんでしたが、何を、そのように、お迷いになるのでございますか」 「聞くがよい。──
今夕、播磨どのが、妙に、力のない面で、訪うて来たゆえ、いかなる心配ごとやあると、訊き
いてみると、自分の軍功を御返上してもよいゆえ、右馬助忠正を助けて給われと、いと、しおらしげに、言うではないか」 「まあ。・・・・では、忠正どのは、甥御おいご
という縁をたよって、六波羅に参られているのでございますね」 「匿かく
もうたうえ、思案にあぐね、この信西に、朝廷へのおとりなしを、わざわざ頼みに見えられたのだ。── ばかなと、そこで、わしがしかったわけじゃよ。お許は、どう思う」 「さあ、わたくしには」 「いや、女性にょしょう
の身の、お許ですら、美福門院様の思し召しをかなえ、かつは、故こ
鳥羽の君の御遺詔を立てるためには、裏面において、あらゆる辛い働きもして来ているではないか。平家一族の武者頭ともある播磨どのの女々めめ
しさを、笑うてやるがよい」 「や、信西どの、お内方うちかた
にまで、笑われては、清盛、立つ瀬もありませぬ。──ですから、先ほどより、申し上げておりましょう。もう肚はら
は決め申したと」 「・・・・が、なお、どこやら、沈湎ちんめん
と、思い迷うらしい風ふう が見える。顔は酔うても、心まで酔うてはおられぬ」 「愚痴なるかな、この凡児ぼんじ
。どうもなかなか、自分が割り切れません」 「観経かんぎょう
を読まれたことはないか。観経にいわく、劫初ごうしょ
このかた、父を殺す悪王一万八千人、されど、今田母を殺す子なし、と説いてある。なぜかといえば、異朝のもろもろの悪王が、国位を奪うためであった。── が、、御辺の場合は、大いに違う。忠正は、大逆の賊、御辺は、朝命を奉ずる臣。しかも、義絶のあいだであり、真しん
には、血もつながっていない者ではないか」 「わかりました。やります。もう、迷いませぬ」 「愚だ。このとき、忠正を斬らぬなどは、御辺ごへん
一個の、煩悩ぼんのう にすぎぬ。もし、助けて、遠国へ放ちでもした後、地方の平氏を集め、ふたたび族党を固かた
めて、勢力を伸ばして来たら、御辺にとっても、ゆゆしい禍わざわ
いにならぬこともあるまい」 「げにも、小胆なわたくしでした。朝命をいただけば、明日でも」 「ウム、早いがよい。もし、御ご
詮議せんぎ の右馬助忠正が、六波羅内の内に、匿われておるなどと、世間にでもふと漏れたら、それこそ、播磨どのの一身のみか、一族の大事となろうに」 「誤りました。まこと、その一事だけを思うても」 清盛は、肚はら
を決めて、姉小路の信西入道の館を辞した。── 馬上となって、夏の夜風に吹かれると、どうしたのか、反対に、グラグラと、悪酔いにつきあげられた。酔いきれずにいた酒が、一時に発したものでもない。彼の頭の中に、もう明日のいやな光景が描かれていたのである。──
叔父の首を斬って出す ── 。 どうも豁然かつぜん
と、なりきれない。楽しくない。怏々おうおう
という気持である。 「おれは、生来の、臆病おくびょう
者かしらて。きらいといえば、このうえもなくきらいな叔父なのに、いや、叔父でもない忠正なのに。・・・・どうしてだろうか」 五条大橋を渡るにも、首を振り動かしてみたり、こめかみをたたいたりして、ひどく冴さ
えない馬上の人であった。 |