〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/18 (月) きゆう  ちよう (一)

清盛は、戦後とはいえ、まだ一日も、甲冑かっちゅう を解いて寝る暇もなかった。
十六日には、手勢三百余騎を連れて、如意山を越えて、大津、坂本方面へ、出動していた。
(為義と、その子息らが、三井寺にかくれ、湖を渡って、東海道へ逃げ落ちる支度をしているという密訴がある。── すぐ せ向かって、召し捕えよ)
という朝命を奉じて急いだものである。
だが、それは、虚説だった。
三井寺を調べたが、疑わしい痕跡こんせき もない。
大津の町、湖畔の漁村、手分けして、狩り尋ねたが、なんの、手がかりもつかめなかった。そこでさらに、
「泉ノつじ を、軒ごとに、詮議せんぎ して行け」
と、大勢して、洗いたてた。
ところが、ここは、叡山えいざん の無動寺領であったのだ。山法師が、隠れ遊びの稚児ちご 茶屋があったり、湖上を東西する船の旅客を待っては送る娼家しょうか の女たちも多くいた。そこへ、一軍の兵馬が混み入って来たのである。はち の巣を突いたような騒ぎとなったのはいうまでもない。
村道の口を止め、兵軍が戸ごとを、調べている間に、清盛は、里長さとおさ の老人や、娼家の主などを呼びつけて、
「何か、聞き及んだことでもないか」
と、自身でたずねていた。
年増女としまおんな の一人がしゃべった。
「その為義様かどうか分かりませんが、夜明けの前、大津の西浦から、東近江へ、落武者が六、七人、舟で渡ったというていた漁師がございました。たしかに、立派な具足を召された武者衆であったと、その漁師は申しておりましたが」
これは耳よりなと、清盛が、なおただ しているまに、どこかで、乱調子な鐘の音が聞こえ出し、そして、村はずれから、ただならぬとき の声が起こった。
これは、無動寺の大衆が、寺領へ無断で侵入して来た軍兵を、不法なりとして、
「暴には、暴をもって、むく え」
とばかり、大挙、武装して殺到したものだった。
清盛の兵は、すでに矢弦やづる を鳴らして応戦し、法師勢は、手なれの薙刀なぎなた を振りかざして、突入して来た。
彼らの野性ぶりは、武者の比ではない。鍛錬された技術と、強靭きょうじん な体力を持ち、いわゆる万夫不当の大坊主が、四、五人はきっと交じっているのである。
バタバタと、味方の死傷を、地に見出した。
理非はともあれ、それを見ては、清盛たる者も、ひる んではいられない。馬をとばして、敵に接し、勇猛な一法師を狙って、矢をつがえた。
すると、その大法師が、双手をあげて言った。
「やあ、六波羅の清盛どのではないか、待て待て、播磨どの、和主わぬし ならば、喧嘩けんか はしたくない」
「なに、喧嘩はしたくないと。── そういう貴僧は、たれか」
横川よかわ 、無動寺の実相坊」
「はてな?」
もう八、九年も前になるからお忘れであろう。詳しくいえば、過ぐる久安三年の夏六月、われら山門の大衆が、強訴を称え、神輿を奉じて、入洛じゅらく のみぎり、祗園ぎおん の下で、われら大衆の前に立った、ただ一個の甲冑武者があった。其奴そやつ が、神輿に向かって、不敵な矢を射たことがあった。覚えておらるるや」
「忘れるものか。それなん、この播磨守清盛だった」
和殿わどの 一個の矢のために、山門の威厳は地におと され、一時は、清盛こそ、かならず殺すべき怨敵おんてきのろ うたが。── 否、当代めずらしい男よと、ひそかに、和殿のその後を、山から眺めていた変わり者も二、三はいた。・・・・かく申す実相坊。それと止観院の如空坊。西塔の乗円坊など」
「それがどうしたのか」
「おりがあったら、和殿と話したいと言っていた。話せば、何か、おもしろい結縁けちえん が、自然、生じるやも知れないと」
「望むところ。いつでも」
「── が。今日の乱暴は、どうしたことか」
「宿意は、何もない。ただ、朝命のまま、為義どのの追捕に来て、騎虎きこ の勢い、らち もない仕儀になったまでのこと」
「では、退き給え。他日、また会うことにして」
「おう、退こう。ちと不面目だが、今日のところは。こっちが悪い」
清盛は、あっさりあやまって、引きあげた。
けれど、部下の雑武者たちは、武士に面目にかかずらって、業腹ごうはら で堪らないらしく、帰る途中、西浦の民家を焼き立てたりした。
為義を、舟で逃がした報復と、無動寺の大衆に痛めつけられた腹癒はらい せでもあったが、しかし、為義一族が、東近江へ落ちたという風聞も、じつは人違いであったことが、あとで分かった。
動乱の世、いつも、泣き寝入りの災厄にあうのは、何も知らない、漁農の民や市民であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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