〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/18 (月) はん にゃ いち (二)

街は、急速に、平常に返った。けれど、新院方と見られる逃亡者の追捕ついぶ は、峻烈しゅんれつ をきわめている。
洛内の辻々つじつじ には、なお、厳戒令が かれたままだし、五畿七道の関所口も固められ、旅人の胆をくすめさせているという。
── おりふし、街中では、しきりに、こんなことが、言われていた。
「自首して出れば、特に、その者は、御赦免になるというお沙汰さた じゃないか」
「いや、名ある人びとは、ゆる されもしまいが、重罪たる者も、なるべく、罪は軽くという朝廷のおぼ し召しだとか」
「新院は御出家あそばすし、悪左府も、矢に たって、落命された。あとは皆、余儀なく加担した衆ばかりと言うてよい」
「これ以上、血で血を洗うようなこともあるまいて」
べつに高札が立ったわけでもなし、出所も不明なちまたの取り沙汰に過ぎなかったが、これが風のたよりに聞こえると、各所に潜伏していた逃亡者も、希望的な観測にそそられて、
(命だに助かるならば、こうして隠れているよりは)
と、かなたこなたから、自発的に、名のって出た。
左京大夫教長と、近江中将成雅の二人は、洛外の太秦うずまさ に出家して潜んでいたが、届け出によって、すぐ、周防判官李実が、召し捕りに、さし向けられた。
四位成隆と、右馬権頭実清は、浄土谷の隠れ家から。
また、皇后宮権太夫師光もろみつ 、備後守俊通、能登守家長なども、思い思いに、自首して出た。
頼長の末路を、最後まで見とどけた蔵人経憲も、兄の盛憲と一緒に、大和方面で、逮捕された。
なおなお、亡き左大臣の外戚がいせき の者どもたら、一味した滝口たきぐち の武者など、毎日、何十人となく、靫負庁ゆきえのちょう獄舎ひとや に投げ込まれた。
ここの獄庭では、水問い、火問いなどという苛烈かれつ な拷問が行われ、刑吏の叱咤しった と、罪人たちの悲鳴が、ときどき、土塀どべい の外にまで聞こえた。
戦犯の裁判長には、右少弁惟方これかた が任ぜられ、だい 外記げき 師業もろなり が、判事となって、毎日のように、吟味をひらき、
“新院御謀反ごむほん のこと、ならびに一味調書”
とよぶ厖大ぼうだい なる記録が作られていた。
戦犯者の追及は、ただ、今度の合戦に一味した者だけに止まらない。それ以前の、近衛帝の崩御から、美福門院の呪詛事件にまで及んだ。数年にわたるそれらの関係者を、根こそぎ、洗いたてるものだった。── 俄然がぜん大恐慌だいきょうこう が起こった。皮肉にも、それは内裏の内からであった。いまは巧みに、勝者の陣営にある者でも、以前の言動を洗われると、いかに、二股ふたまた をかけた両面の使い分けに、うまく成功して、何食わぬ顔をしている人間が多かったことか。── それが表面化しょうとした。
けれど、そこまでは、事実上の追求はなかった。
ただ、やがて戦後の論功行賞のわりふりに当たって、それが、賞勲考査の資料になったことにはちがいない。
── こういう抜け目のない、そして、峻烈しゅんれつ な行政手腕をふるっている新朝廷の上官は、いったい、だれかというに、それは久しい間、少納言のきょく の机に、背をかがめたまま、鳴かず飛ばずで、凡々と吏務をとっていた例の ── 少納言信西しんぜい 入道なのである。
典型的な、官僚肌の男、とでもいおうか。
今までは、容易に、その頭角を、きょく 以外には、現わさないかれであった。
わけて、頼長のいるうちは、ほとんど、来朝の眼のすみにも止まらないように、無能、無言を守っていたかれ。
その信西入道が、ようやく、首をもたげ、廟堂びょうどう の上に大きく自己を見せ出したのは、まったく、こんどの戦乱を境とし、特に、戦後処理の行政に、自身、当たってからのことである。
残党狩りの執拗しつよう さも、かれの性格らしいし、また、自主奨励の街の偽説なども、実は、信西の策というのが本当らしい。
恩賞の内議にも、信西は、その考査に当たって、大きな発言を持ち、かれの意見が、基準になった発表とも言われている。
その中で、下野守義朝が、昇殿を許され、左馬頭さまのかみじょ せられtのに較べて、安芸守清盛が、また播磨一国を加えられて、とな えも、播磨守はりまのかみ となったのは、見る者が見ると、非常に、格差のある恩賞だという評があった。
左馬さま りょうかみ といえば、見栄はよく、武将の官職としては、めずらしく高い地位でもあるが、なんと、清盛どのが受けた播磨守は、どう思う?」
「それは、較べ物には、なるまい」
「なるまいがの。── いかに、寮ノ頭でも、一方は、馬いじりの、馬のつかさ にすぎぬ。清盛どのが、さきの安芸一国に、また、播磨一国を加えた富とは、重さが違う」
「義朝どのは、見栄のよい名を取られ、清盛どのは実を取ったわけよの」
「そうだ。・・・・由来、瀬戸せと うち の海に面した備後、その他には、親の忠盛ただもり どのが領国であったところの、平家の族党が、たくさんいる。されば、前もって、清盛どのから信西入道へ、ぜひ播磨の国を賜え ── と、ないない、請うていたのではあるまいか」
「・・・・かも知れぬよ。あの両家の、親しさからでも」
恩賞の発表には、依怙えこ 、不平の論は、付きものだが、信西入道と清盛の仲は、何か、格別なあいだらしい。どうもただ親しいという程度ではないと、ようやく近ごろになって、周囲も気がつき始めていた。
なんと、迂遠うえん な衆目だろう。
信西は、早くから、武者の力を牛耳る必要を考えていたし、清盛も、家門の興隆には、廟堂の人物との黙契を、望んでいたにはちがいない。── そして両者の、妻と妻も、たえず行き交いして、良人おっと たちの、そうした野心の交易こうえき に、裏面のたす けをしていたことを、世間は、気づかずにいたらしい。
いまや、二人の黙契の上に、両者の期していた季節が巡って来たわけである。── 清盛が、義朝には、名を取らせ、自分は、実利を取ったのも、
(花は、行く末に、いくらでも)
と、将来の夢を、大きく抱いていたためであったとは、後にこそ人も知ったが、この時には、まだたれも感づかずにいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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