〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/17 (日)  だま (四)

次の日である。
新院には、一夜をお考えになった末、ここからそっと、仁和寺にんなじ へ渡られた。
仁和寺の門主、覚性法親王は、鳥羽の五ノ宮で、新院にとっては、実の弟君である。
「── とはいえ、今は、よも入れらじ、ただ押して輿を き入れよ」 ── と新院は、あらかじめ、おん眼を閉じて、家弘へいいつけてあった。
果たして、すげなく拒まれた。
それを、たって押し切って、御室おむろ の別院へ、おはいりなったのである。門主は、不在とあって、新院との御対面もない。内裏へのてまえ、さもあらめと、新院は、お恨みもなさらない。むしろ、やっと、最後の運命を待つところへ来た ── という落着きが、御容子ごようす に、うかがわれた。
「内裏方へ、敵対し奉ったわたくしたちが、お側にいるのは、かえって、よろしくありますまい。ここまで、御先途をお見とどけいたした上は」
と、家弘、光弘は、お暇をこうて、その夜、仁和寺を立ち去った。こう二人は、まもなく修験者の群れに入って、ともに、他国へ落ちて行ったという。
麻鳥も、いつのまにか、姿を、かくした。
いずこへ落ちて行ったやらと、おりおり、新院のおんまぶた には、素朴な彼の姿をお描きになるのであった。
天皇、また上皇としての、およそ二十年ほどの間に接しられた数多あまた なる衣冠束帯いかんそくたい の権力の中の人間と、素肌すはだ で素心な、一個の麻鳥とを、思い比べて、深い感慨にふけ られることも、ままあった。
── とまれ、仁和寺の奥の人なき処、冷ややかな寂光の幾日かは、新院にとって、昏々こんこん と、深い眠りをめぐみ、また、人間を り、人間社会の実相を考えるのに、こよなき機会であったにはちがいない。
けれど、これをもって、御生涯の清算がついたとは、いえないのである。剃髪ていはつ して、罪を待つおん身に、果たして、朝廷からどういう処断の命が降りるか。── またいくさ に勝てば、勝った方の側にも、また新たな人間葛藤かっとう が、そこに起こり、新院処分の議判にも、さまざまな人心が、もう、どこかで、相手と形を変えたたたか いを、闘い合っているに違いない。

白河北殿の焼亡に次いで、洛内では、あちこちのやかた が、官軍の手で焼き払われた。
新院方にきみ した謀反人むほんにん たちの邸宅襲撃である。
第一には、頼長の東三条亭、壬生みぶ の別荘。そのほか、逆徒と呼ばれた諸卿の家々も、一つとして、余されはしない。
炎は、四日四晩も、古都の空をいぶした。
戦後、二日目の晩から、小雨が降り出し、三日目も雨だったが ── 夜のうちに、桂川を下って来て、川尻かわじり に、風やみを待っていた柴舟しばぶね があった。
柴を積み重ね、さらに、とま をかぶせて、夜来やらい の風雨を、やっとしの いだらしいものの、舟底にかが まりあっている人影は、みな、濡れびたって、顔も出さない。
おりおり、うめ き声がもれる・・・・。
舟底に横たわっていた傷負てお いは、きのうまでの、氏の長者、左大臣頼長だった。図書允俊成、蔵人経憲など、わずか四、五人が看護みとり していた。
「まだか、宇治は。・・・・宇治はまだか」
苦しげに、傷負いはいう。宇治の老父、忠実の所へ逃げたいというのが、頼長の切なる望みであった。
行き う荷舟や、岸の人眼を忍びながら、柴舟はやがて、宇治川の方へ下って行った。
── 瀬々のくい の上から、キョトンと、こっちを見ている の眼玉にも、何か、心をすく ませながら。
雨は小やみの薄陽うすび を見せ、川面かわもにじ を溶かしたようにまばゆ い。けれど、とま の下からは、呻く大臣おとど の声しか、もれなかった。そして、もぐさ くさい煙がそこににお うのは、またしても、俊成や経憲などが、大臣の大きな体を押さえつけて、のど の矢傷へ、きゆう をすえているものと思われる。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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