〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/16 (土)  だま (二)

それは、精神的にも、肉体的にも、打ちのめされた御生命の、真実なお気持だった。
ことには、こう大勢が、群れ彷徨さまよ っていることは、われから、危険を呼び求めているようなものだ。矢はつき、馬は捨て、五体はたれも、綿のように疲れている。── むしろ、散々ちりぢり に、別れた方が、敵の眼をくらましやすいこと万々である。
ちん のそばには、家弘と光弘だけが、いてくれればよい。明日を待って、いずこへなりと、身の寄る を求めようほどに」
かくまでも、新院が、仰っしゃるものを、人びとも今は、叡慮えいりょ を曲げて、 い奉る気にもなれなかった。といって、ここでの決別は、みな断腸の思いにせかれた。ある武者は、声を放って泣き、ある公卿は、もの狂わしゅう、新院のおそで にすがった。── しかし、果てない事だと、みな覚った。かかる上は、夜の明けぬうちにこそ ── と、やがて、五人十人と、お暇をつげて、山風のやみ に紛れて、おのの、どこへともなく落ちて行った。
源為義の一群れも、右馬助忠正たちも、最期に、山科路やましなじ や、比叡方面へ、別れ別れに立ち去った。
「・・・・・・・」
なぜであろうか。ぽつねんと、孤寂の中に置き捨てられた時、新院のお心は、かえって、ほっと、ある安けさを、お感じになった。
「・・・・家弘」
「はい」
「光弘も、おるや」
「おん前にござりまする」
「おこと たち二人のみ、残ってくれたか。悲運よのう。あわれ、この身にじゅん じて」
「なんの、うれしいことです。かく御先途せんど を、見奉ることのできる身は」
「ああ、疲れ果てた。・・・・身を横にしたい。こうしているにも耐えぬ」
「あっ、もしっ・・・・。ここは、そま の通る道のべ。敵も通りましょう。かなたの谷の蔭まで、お歩行ひろい あれば、しば など寄せて、仮のお寝屋を設けまする。さ、もすこしの、御辛抱を」
すると、もう人はいないとばかり思っていた草むらから、ガサと動いて、言う者があった。
下部しもべ の身とて、おそ れ多さに、控えていましたが、おゆるしなれば、麻鳥が背に、負い参らせて、お供をいたしましょう。谷道は、いとどけわしゅうございますし」
「や・・・・麻鳥。おまえは、まだ、残っていたのか」
「陛下。およろしければ、わたくしの背に、おすがり給わりませ。下臈げろう の足は強うございます」
「どうして、おまえは、落ちて行かないのか」
「いえ、やがては、麻鳥も、お側から姿を消さねばならないことになりましょうが、それだけに、たとえ幾日の間でも」
麻鳥は、かが まり寄って、新院へ、背をお向けした。
四山は、眠って、厚い霧が、降りてきた。── が、遠くを望めば、古都平安の空は、なおまだ燃え続けている地上の炎に、魔の息吹のような火花を、いちめんに、ぼうっと映していた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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