山は、夜に入った。 当然なこととして、内裏方の追撃兵は、麓
から峰道へまで、分け入っているらしい。木の根、草の根を分けてもと、新院のお行方を、狩り探している動きである。 「もう耐えられぬ。捕われるなら、捕わるもよし、朕ちん
はこれ以上、歩むも這は うも進むことは出来ぬ。・・・・みなは、みなの思い思いに、朕を捨てて、遠くへ落ちのびてゆくがよい」 風に追われ、木々の戦そよ
ぎに追われ、夜もすがら、如意山中を彷徨さまよ
われたため、新院は、極度の御疲労におそわれて、ついに、夜露の中に座ったまま、お息をあえぐばかりである。 人びとは、みな哭な
いた。すすり泣いた。 「どうして、わが君を、この山路に捨てて、身ひとつの安全のため、おそばを離れて立ち去れましょうや」 すべての者が、こぞって言った。この気持に、偽りはない。 ことに、為義、忠正などは、武将として、なおさらである。 為義は、涙ながら、お諭さと
し申し上げた。 「どうか、ここ数日を、お忍びください。御苦難にお克か
ちあそばしませ。流亡の辛苦を、玉体に強し
い奉るのは、胸の裂くる思いでありますが、なんとかして、せめて近江路までも越えおわせば、臣らにも、強ばんかい
の策がないでもございません」 為義が考えている策とは、こうである。 比叡ひえい
の東を越えて、湖を渡り、近江へ行って、近江源氏や、甲賀、鈴鹿すずか
の豪族をかたらい、瀬田の大橋を引いて、再挙の一戦をはかる。 もし、これが行われなかったら、遠く関東まで落ちて、足柄、愛鷹あしたか
の切所せつしよ を扼やく
し、相模、武蔵には、源氏の縁類も多いので、上皇の院宣を給うならば、坂東武者は、あげて御麾下ごきか
に、参ずるにちがいない。 たとえ、一戦二戦で、目的は遂げ得ないとしても、さらに、陸奥みちのく
の遠くを望めば、決して、御運の極まるわけではない。いつかは、再上洛の機を、うかがうことが出来よう ── という二段三段がまえの、後図こうと
であった。 為義のこの考えは、北殿きたどの
の敗戦を見ない前からのもので、ひそかに、左府頼長には献言してあったが、ついに頼長には容い
れられなかったものである。 (── が、今でも、なお遅くはない) 為義は、信じている。 新院のおん前に、老躯ろうく
を曲げて、切々と説いたのであった。けれど新院のお心はすでにこのとき、この戦いに、悔いておられた。ふたたび、なんのお望みを、世に持とうという思おぼ
し召しもない。 |