“新院御謀叛” のことは、彼も早くに知っていた。 御所の留守居も、町の者も、疾
くに、争って避難してしまったが、麻鳥だけは水守小屋を去らなかった。── といって、宮廷や権臣間の、内情などは、もとよりうかがい知るところの彼ではないが、新院のお立場や行く末を案じるとき、彼は、悲しまずにいられなかった。──あの、おやさしい陛下、お人よい陛下、下の者にもわけ隔てなく慈愛にみちておられる陛下が、どうして、戦争の首謀者などにおなりになったのか。──麻鳥は、地だんだ踏んで、陛下の為に、悔やむのだった。
(必ずや、いつか陛下も、ここと同じ劫火ごうか
に趁お われ給うて、柳ノ水を恋う日がおありになるに違いない。無為むい
、無聊ぶりょう の年月も、やがて、ふりかえれば、懐かしくもあり、勿体もったい
ない心地もされよう。── 平和な日の柳ノ水を、恋しと、お思いあそばすおりが巡めぐ
って来るに違いない。そんな時、ふと、さし上げたら、思いがけない、お慰めになろうも知れぬ) 麻鳥は、炎の御所をあとに、立ち退いても、もとより、自分の一生は、新院に捧げて、ご奉公に終わるものと、心に決めているので、白河北殿の附近に潜んで、蔭ながら、合戦の成り行きをながめていた。 果たせるかな、そこも陥お
ちた。そして、新院のお供らしき一群の公卿や武者が、如意山に逃げ込んだので、後を慕って、彼も、供奉ぐぶ
のうちに紛れ込んでいたものだった。 ── 新院は、彼の述懐を、お聞きになっているうちに、白々と二すじのおん涙を、頬ほお
に描かれた。 つき従う者とて、いまは極く少数な者しか残っていない。 それも皆、公卿なれば、逃れ得ない高位の者か、武者なれば、大将、部将に限られている。戦い不利と見れば、ここにあるべきはずの寵臣ちょうしん
の多くも、落莫らくばく として、見えもしない。 (・・・・それなのに、この名もない一下部しもべ
は) と、新院は、麻鳥の心根を、その忠誠を、初めは、何かふしぎな心理みたいにお疑いになった。あり得ない人間の心のように、お思いになられた。 忠誠だの、正義の守りだの、犠牲の愛だのという高い人間の精神は、平常、耳にも飽くほど、公卿顕官けんかん
の口からは聞かされておいでになり、それを信じて来られたため、今日の挙きょ
にもなり、この運命にも立たれたのであった。しかし、貴族でもない、武者でもない、麻鳥のような身分の軽い者に、どうして、そんな真心があるのか。官位や栄爵も欲しない
── 何の代償をも望んでいない ── みすぼらしい身一つの人間がそんな美しい心根を持っているのか。それが、新院には、おわかりにならない。 いや、真心は真心として映らずにいないので、直後には、すぐ麻鳥の純なる敬愛の気持を、新院も、お酌く
みとりにはなった。そして、こいう素朴な野の民のうちにこそ、なんの表裏も醜さもごまかしていない、きれいな一つの精神の花が、この国の四季の中にはあったのだということを
── まことに遅くはあったけれど ── いま初めて、ここで、お習まな
びになった。 「さ。もう一息、嶺の背へ急ごうか。まだ、この辺りでは、油断はならない。もし敵の目にかかったらそれまでだ」 あたりでは、侍者や武者たちが、わざと、ひとり言ごと
にいっていた。急き立てているのである。新院も、うなうかれた。 「麻鳥。・・・・では、その水をひと口、給た
もれ。いただこうよ。おまえの真心を」 「おそれ多いことを。・・・・さ、どうぞ」 「手ずからでよい。もっと、側へお寄り」 新院は、竹筒をお取りになった。 乾きぬいているお唇くち
へ竹の口を当て、眼をつむって、お飲みなさる。幾たびも、息をついては、味わうが如く、また飲まれる。 「アア、甦よみが
った。甘露かんろ のようであったよ」
と、竹筒を、麻鳥の手へ戻されながら、 「── まだ、残っているね。勿体ない。捨てないで、取っておくように」 と、仰っしゃた。 |