〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/16 (土) 陛 下 と 麻 鳥 (四)

“新院御謀叛” のことは、彼も早くに知っていた。
御所の留守居も、町の者も、 くに、争って避難してしまったが、麻鳥だけは水守小屋を去らなかった。── といって、宮廷や権臣間の、内情などは、もとよりうかがい知るところの彼ではないが、新院のお立場や行く末を案じるとき、彼は、悲しまずにいられなかった。──あの、おやさしい陛下、お人よい陛下、下の者にもわけ隔てなく慈愛にみちておられる陛下が、どうして、戦争の首謀者などにおなりになったのか。──麻鳥は、地だんだ踏んで、陛下の為に、悔やむのだった。
(必ずや、いつか陛下も、ここと同じ劫火ごうか われ給うて、柳ノ水を恋う日がおありになるに違いない。無為むい無聊ぶりょう の年月も、やがて、ふりかえれば、懐かしくもあり、勿体もったい ない心地もされよう。── 平和な日の柳ノ水を、恋しと、お思いあそばすおりがめぐ って来るに違いない。そんな時、ふと、さし上げたら、思いがけない、お慰めになろうも知れぬ)
麻鳥は、炎の御所をあとに、立ち退いても、もとより、自分の一生は、新院に捧げて、ご奉公に終わるものと、心に決めているので、白河北殿の附近に潜んで、蔭ながら、合戦の成り行きをながめていた。
果たせるかな、そこも ちた。そして、新院のお供らしき一群の公卿や武者が、如意山に逃げ込んだので、後を慕って、彼も、供奉ぐぶ のうちに紛れ込んでいたものだった。
── 新院は、彼の述懐を、お聞きになっているうちに、白々と二すじのおん涙を、ほお に描かれた。
つき従う者とて、いまは極く少数な者しか残っていない。
それも皆、公卿なれば、逃れ得ない高位の者か、武者なれば、大将、部将に限られている。戦い不利と見れば、ここにあるべきはずの寵臣ちょうしん の多くも、落莫らくばく として、見えもしない。
(・・・・それなのに、この名もない一下部しもべ は)
と、新院は、麻鳥の心根を、その忠誠を、初めは、何かふしぎな心理みたいにお疑いになった。あり得ない人間の心のように、お思いになられた。
忠誠だの、正義の守りだの、犠牲の愛だのという高い人間の精神は、平常、耳にも飽くほど、公卿顕官けんかん の口からは聞かされておいでになり、それを信じて来られたため、今日のきょ にもなり、この運命にも立たれたのであった。しかし、貴族でもない、武者でもない、麻鳥のような身分の軽い者に、どうして、そんな真心があるのか。官位や栄爵も欲しない ── 何の代償をも望んでいない ── みすぼらしい身一つの人間がそんな美しい心根を持っているのか。それが、新院には、おわかりにならない。
いや、真心は真心として映らずにいないので、直後には、すぐ麻鳥の純なる敬愛の気持を、新院も、お みとりにはなった。そして、こいう素朴な野の民のうちにこそ、なんの表裏も醜さもごまかしていない、きれいな一つの精神の花が、この国の四季の中にはあったのだということを ── まことに遅くはあったけれど ── いま初めて、ここで、おまな びになった。
「さ。もう一息、嶺の背へ急ごうか。まだ、この辺りでは、油断はならない。もし敵の目にかかったらそれまでだ」
あたりでは、侍者や武者たちが、わざと、ひとりごと にいっていた。急き立てているのである。新院も、うなうかれた。
「麻鳥。・・・・では、その水をひと口、 もれ。いただこうよ。おまえの真心を」
「おそれ多いことを。・・・・さ、どうぞ」
「手ずからでよい。もっと、側へお寄り」
新院は、竹筒をお取りになった。
乾きぬいているおくち へ竹の口を当て、眼をつむって、お飲みなさる。幾たびも、息をついては、味わうが如く、また飲まれる。
「アア、よみが った。甘露かんろ のようであったよ」 と、竹筒を、麻鳥の手へ戻されながら、
「── まだ、残っているね。勿体ない。捨てないで、取っておくように」
と、仰っしゃた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next