驚く人びとの足もとや、萱
のあいだを、かき分けかき分けして、やがて、新院のおん前まで、はい上がって来た者がある。見ると、それは、新院がつい先ごろまでのお住居 ── 三条西洞院の、御所の水守をしていた
── あの柳ノ水の番人、阿部あべの
麻鳥あさどり であった。 「お水は、これに、ござりまする。柳ノ水が、こ、これに・・・・」 麻鳥は、ひざまずいて、腰なる青竹の筒を解き、畏おそ
る畏る両手にささげて、おすすめした。 新院には、びっくりなされたような、お顔であった。 汗も、あえぎも、足の血も、お忘れのように、おん眼をこらして、 「オオ、おまえは、水守の麻鳥ではないか」 「・・・・・」 麻鳥は、がくと首を垂れ、喉のど
のへんで嗚咽おえつ をのんだ。ク、ク、ク・・・・と鼻の奥が鳴っている。こめかみが、しきりに顫ふる
え、襟毛えりげ が一本一本、泣いているように見える。 「・・・・麻鳥」
と、新院は、もう一度、お心をこめて、呼び直された。 「は・・・・。はいっ、はい」 ── ああ、お忘れなく、覚えておいで遊ばした。彼の感激は、それだった。 「・・・・ど、どうぞ。お渇かわ
きを、おしのぎ下さいまし。竹筒にくみ入れましたため、やや竹の香はいたしましょうなれど、陛下が、お好きな、十四年の間も、朝夕、お口になされている柳ノ水です」 「おまえは、どうして、あの井の水を、こんな所まで、持って来ていたのか」 「はい、夢のようですが、きょうとなれば、一昨日おととい
の夜となります。にわかに、内裏方の軍勢が、西洞院の御所をかこみ、中にいた武者と、合戦になりました」 「おお・・・・桟敷殿さじきでん
から望まれた、あの、宵の炎のときであろうよ」 「── その宵まで、麻鳥は、よしや、おん主はおわさずとも、柳ノ水だけは、命をかけて守ろうものと、いつもの小舎こや
におりましたが、たちまち、御所いちめんは猛火になり、いるにもいられなくなりました」 まだ山は薄明るい。供奉の人びとは、敵の追撃を恐れて、恟々きょうきょう
と、気をせいているので、麻鳥もことば少なに、あとを、早口に語った。 ──西洞院の御所が焼け落ちるとき、彼は、急に思いついて、青竹を切り、竹の水筒を作った。それに、柳ノ井の水を、心静かに汲み入れて、腰にさげ、炎の下から、立ち退の
いたと言うのである。 彼の所願は、上皇のお好きなこの水を、もう一度、どこかで、お名残に、さしあげたということのあった。 |