〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/16 (土) 陛 下 と 麻 鳥 (三)

驚く人びとの足もとや、かや のあいだを、かき分けかき分けして、やがて、新院のおん前まで、はい上がって来た者がある。見ると、それは、新院がつい先ごろまでのお住居 ── 三条西洞院の、御所の水守をしていた ── あの柳ノ水の番人、阿部あべの 麻鳥あさどり であった。
「お水は、これに、ござりまする。柳ノ水が、こ、これに・・・・」
麻鳥は、ひざまずいて、腰なる青竹の筒を解き、おそ る畏る両手にささげて、おすすめした。
新院には、びっくりなされたような、お顔であった。
汗も、あえぎも、足の血も、お忘れのように、おん眼をこらして、
「オオ、おまえは、水守の麻鳥ではないか」
「・・・・・」
麻鳥は、がくと首を垂れ、のど のへんで嗚咽おえつ をのんだ。ク、ク、ク・・・・と鼻の奥が鳴っている。こめかみが、しきりにふる え、襟毛えりげ が一本一本、泣いているように見える。
「・・・・麻鳥」 と、新院は、もう一度、お心をこめて、呼び直された。
「は・・・・。はいっ、はい」
── ああ、お忘れなく、覚えておいで遊ばした。彼の感激は、それだった。
「・・・・ど、どうぞ。おかわ きを、おしのぎ下さいまし。竹筒にくみ入れましたため、やや竹の香はいたしましょうなれど、陛下が、お好きな、十四年の間も、朝夕、お口になされている柳ノ水です」
「おまえは、どうして、あの井の水を、こんな所まで、持って来ていたのか」
「はい、夢のようですが、きょうとなれば、一昨日おととい の夜となります。にわかに、内裏方の軍勢が、西洞院の御所をかこみ、中にいた武者と、合戦になりました」
「おお・・・・桟敷殿さじきでん から望まれた、あの、宵の炎のときであろうよ」
「── その宵まで、麻鳥は、よしや、おん主はおわさずとも、柳ノ水だけは、命をかけて守ろうものと、いつもの小舎こや におりましたが、たちまち、御所いちめんは猛火になり、いるにもいられなくなりました」
まだ山は薄明るい。供奉の人びとは、敵の追撃を恐れて、恟々きょうきょう と、気をせいているので、麻鳥もことば少なに、あとを、早口に語った。
──西洞院の御所が焼け落ちるとき、彼は、急に思いついて、青竹を切り、竹の水筒を作った。それに、柳ノ井の水を、心静かに汲み入れて、腰にさげ、炎の下から、立ち退 いたと言うのである。
彼の所願は、上皇のお好きなこの水を、もう一度、どこかで、お名残に、さしあげたということのあった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next