〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/15 (金) 陛 下 と 麻 鳥 (二)

新院は、東山の峰の一つへ逃げ入られた。
「この山は?・・・・」 と、おたずねになる。
如意山にょいざん にて候う」
と、武者のたれかが、後ろで答えた。
如意、大文字、瓜生うりゅう などは、四季、窓の文机ふみづくえ から、頬杖ほおづえ して、眺め楽しんでいた山々である。雪をかず いた冬の朝といい、月をかざ した秋夜の容姿ろいい、つねに、風雅の対象と ていたかの山が、実は、こんなにも険しい、荒々とした山はだ や、熊笹くまざさがけ をもったものとは、新院も、いま初めて、気づかれたことであった。
ここでは、馬も牛車も、用をなさない。
乗物はすべて、ふもとで捨てた。──御供の人びとには、源ノ為義、平ノ忠正、武者所の李能すえよし なども、あとから加わった。左衛門大夫家弘、光弘の父子は、新院のおん手を取り、お腰を押し奉って、
「まだまだ、ふもとから、いくらも登っておりませぬ」
「ここしばし、忍ばせ給え、敵の手に、かからんよりは」
「あっ、すべります。そこの、木の根に、おつかまり遊ばせや」
「もう、御一歩。・・・・いざ。もう御一歩」
励ます方も、すがる方も、しとどな汗である。あえ ぎ喘ぎに、よじ登ってゆく。
宮の園生そのう の露すらも、素足では踏んだ事のないお身である。当然、御足は血にまあみれ、灌木かんぼくとげ や、かや の葉は、お顔もひじ も、傷だらけにした。そしてなお、行くてを厚くふさ いでいる。
「あ・・・・ああっ・・・・せつない。ちん は、もう・・・・歩めぬ」
新院は、よろと、すわっておしまいになった。
「ど、そう遊ばしましたか」
「・・・・家弘」
「はい。家弘はおそばにおります。お心づよく思し召せ。右馬助忠正も六条為義たちも、続々、殿軍しんがり しつつ、おあとに続いておりまする」
「い、いや・・・・」 と、蒼白そうはく なお顔を横に振って、かわ ききったおくち を、御自身の指で、おさしになった。
「わからぬか。・・・・家弘。・・・・水だ。・・・・水が、ほしい」
「ア、お水ですか」
と、家弘は立って、あたりを見まわしながらいった。
「光弘、水は、あるまいか。たれぞ、上皇さまにさしえげる水をその辺りに見て参れ」
しかし、、これは、むりだった。
もっと、谷か沢辺へ降りて行くか、山蔭の岩根でもあればだが、こうけわしい山梁の露出部に、しかも、ここ十日以上も雨のないとき、水が見あたるわけはない。
供奉ぐぶ の人びとは、途方にくれた。いかに、一滴の水も、こんな時には、黄金にも、権力にもまさる尊い物かを知りながら、ただ、当惑をいい騒いだ。
── すると、供奉の、はるか末端の方から、やや、うわずって聞こえるほど、心のものをむき出しに、こう叫んだ者がある。
「・・・・ご、ございますっ。お水は。・・・・上皇様にさしあげるお水は、わたくしが、ここへ携えてまいりました」
人びとは、驚きの目をみはった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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