〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/14 (木) 陛 下 と 麻 鳥 (一)

── だめだ、もういけない、この猛火。
諸門にせまる寄手の喊声や、矢ひびきも、さながら、暴風雨を思わせる。
絶望の声が、人びとの口をついて出た。気崩れの波から波のうねりだった。収拾すべからざる殿上の混雑が次に来た。
「命こそ、命こそ。今は! ・・・・」
と、うろやえ走り。心もそらに、
「はや、御退去を。御座所を、よそへ」
「まもなく、敵もなだれ入って来よう。一ときも早く、ここを落ちねば、炎にも、つつまれようぞ」
と、吹き寄せられた落葉のように、新院のお身の周りにかたまり寄った。
戦とは、こういうものか。負ければ、こういうことになるものか。と今、お知りになったように、新院は仰天あそばしたまま、なかば、失神の御容子だった。
ところへ、春日表の小門を破られて、ここへ駈けて来た左衛門大夫家弘と、その子、中宮侍長光弘が、
「なお、今ならば、南殿寄りの雑人門から脱けられましょう。疾く疾く、御落去あれよ」
と、階下から、急きたてた。
新院は、お立ちになったが、どうしてよいか、おわかりにならない。恃みに思し召す左府頼長からして、面色も土気色になり、つねの威厳もどこへやら、
「家弘、家弘。命を助けよ」
とばかり、前後もなく、わめいている。
桟敷殿の一角の勾欄が、新しい火塵を噴き上げて、がらがらと、炎の骨格をむき出した。黒い熱風が、逆落としに地を掃いてゆき、武者も、公卿も、馬までが、煙の中に咽びよろめく。
新院は、人びとの手に、押し上げられて、やっと、馬の背にかじり付かれた。── が、馬は狂うし、手綱の御手練はないし、危ういこと、かぎりもない。
そこで、蔵人信実が御馬のしりえに相乗りになり、新院のおからだを、しかと、抱えまいらせる。
同様に、左府頼長の馬にも、四位成隆が、後乗りして、うしろから介添えした。
そのほか、たれやかれも、あとに従き、前を駈けた。
そして、退き口へ、急いだものの、さしも広い白河北殿の御苑が、建物ばかりか、木々の梢まで、バチバチと焔の花を狂わせている。その猛烈な火旋風のため、虚空に舞う物も、地上の人馬も、一陣に吹きなぐられて、しべて皆、檜皮葺からはがれた一片の火のチリみたいにしか見えない。
新院は、北白河の方へ、落ちのびられた。
お後を慕う騎馬の群や、徒歩の影などちりぢりに、なお遅れゆく。── 頼長も、あとを追って、雑人門を、馬で駈け抜けたが、その時、馬の上で、ぐわっと、舌でも噛んだように、妙な声をもらした。
「や、や。左丞相。どうなさいましたか」
四位成隆は、彼の顔を、のぞき込んだ。
しっかり、頼長の腰を抱えていたので、頼長が、手綱を持ったまま鞍の上から振り落とされると、成隆も一緒に、大地へころげ落ちた。
「おうっ、流れ矢だ。矢が、おん喉に」
「宇治どのが、流れ矢に、あたられたぞ」
愕然と、叫びあって、前後から頼長のそばへ駈け寄った。頼長は、左の耳の下から、喉へかけて、射抜かれていた。苦しげにもがくだけで、呻きも立て得ず、着ていた白青の狩衣が、見るまに、血潮しぼりになって染まってゆく。
「はやく、矢を抜いて、お上げせぬかよ。矢を抜かねば、お手当とて、施しようもない」
口々に、うろうろする。
それは皆、気づいていたが、朱によごれた頼長の形相を見ると、公卿たちには、手が出せないのである
図書允俊成は、ここへ、来合わせて、
「泣き暮れている場合ではない。敵の眼にふれたら、おのおのの身も、無事ではないに」
と、頼長の矢を引き抜いて、咄嗟の手当てを加え、式部盛憲や蔵人経憲などの肩にかけさせて、ひとまず、粟田口附近の民家へ担ぎ込んだ。そして、夜を待って、人の乗り捨てた牛車を拾い、頼長を中に寝かせて、ひそかに、嵯峨の一寺を頼って落ちのびて行った。 

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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