ふつう、戦闘に使うのは、征矢
である。鏑矢かぶらや のやじりは、蕪かぶら
に似ていて、異様なほど、型も大きい。風返しというくり抜きを施し、透す
かし目をつけ、これが弦鳴りとともに、飛翔ひしょう
するときには、物すごいうなりが生じるように出来ている。要するに、威嚇を目的とした “うなり矢” なのだ。 征矢を入れて、鎧の背に負う箙には、かならず、普通の矢のほかに、鏑矢を二本差しそえて持つのが慣わしであったらしい。何か、花々とした晴れの場所では、これを使う。余談にわたるが、後年、屋嶋ノ浦で、那須与一が、扇を射た時などは、この鏑矢を用いたものである。 そういう矢。──
それを、為朝は、引き抜いて、彼の腕力と、弓の耐えるかぎり引きしぼり、二本まで、坂東勢の頭の上を飛ばしたのである。どんなうなりが翔か
けたであろうか。そのころの荒武者たちでも、首をすくめて、驚いたに違いない。 「あははは。アハハハ」 彼は、哄笑こうしょう
を残して、駈け去った。 一方。── この子、為朝一人をのぞいて、ほか五人の子息を連れて、父子団結して、今朝から、南表と西裏の二門をささえていた六条為義も、終日、受け身ばかりの苦戦だった。 岡崎口の東門をかためていた右馬助忠正の、惨敗ぶりも、また、ひどい。 北の春日表の門も、いくたびか突破され、幾たびか救援隊が、加勢に駈けて、やっと、もちこらえていたものの、守将の左衛門大夫家弘からして、すでに戦意も失いかけていた。 こういう敗色にみちていた折も折りである。烈風の風上から、大きな炎が、築土をこえ、諸門を越え、木々の梢を渡って来た。 さしも、白河離宮と世に聞こえた名園と、それにふさわしい清雅で宏大な建物も、またたくまに、吹き荒れる紅蓮ぐれん
と黒煙くろけむり の裡うち
につつまれ、今は、敗戦の現実を身に知った人びとの、あえない悔く
いや叫喚も、仮借かしゃく ないき炎の下のものとなった。 |