〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/13 (水) 兄 ・ 弟 (五)

まだ、日没には早いのに、陽はあや しくもかげ りだしていた。それは一天の黒煙であって、煙の中に、赤銅あかがね いろの太陽が、まだ都の西空に、大きくかかっているのが見える。
その前に、義朝は戦場から内裏へ、早馬をやって、一書を少納言信西に送り、内裏の指令を、仰いでいた。
(このまま夜に入って、万一、宇治方面の敵の増援でも着いたら、勝敗のほどは分かりません。少なくも、戦局は、非常な困難となり、戦場では洛内らくない 全土にひろ がりましょう。── 急に勝たんためには、敵のこも る白河の旧離宮へ、火をかける以外、策はありませぬ。ただ附近には、法勝寺など七堂伽藍の宝舎が多く、おそ れもあり、惜しみもされますが、洛中の民を焦土に立たせるよりはと、敢て、勅諚ちょくじょう を仰ぐ次第です。否との、仰せなれば、そのように、戦い、もしお許しなれば、直ちに、火攻めをはか りたいと思います)
彼の奏請そうせい は、殿上の議判のも及ばず、大将軍の謙虚、神妙なり、と言われて、すぐ御聴許になった。
そこで、義朝の部下は、白河北殿の風上を選び、またそこから一番近いとうの 中納言家成の館に、火をつけた。
おりから、西風もつよく、この幾日かは、雨もなく乾きぬいていたので、たちまち、白河南殿の車宿くるまやどり と、舎人とねり 長屋に飛び火し、みるみるうちに、北殿の桟敷殿も、煙に包まれだした。
「やったな。為朝がおそれていたのは、坂東武者よりは、火だ。あの火の手だ。── さすがは、兄よ、いくさ を知っている!」
為朝は、ほとんど、殲滅せんめつ 的に、味方の者を打ち減らされた血漿けつしよう の敗地に立って、そうつぶやいていた。炎の空を見、惨として笑った。
「── いかに、お心はたけ くとも、老いたる父上のお身も気づかわしい。今は、退 き口とって、ひとまず、退 くしかあるまい」
残り少ない郎党を呼びまとめて、一かたまりとなり、追い矢の疾風を浴びながら退却しかけた。すると、敵は、勝ち誇って、口々に、ののし りながら、なお、 け慕って来た。
── 為朝は、馬を向けなおして、
「小うるさい、東国兵め」
と、めったに使わない、鏑矢かぶらや を、えびら から取って、例の強弓を、がっきと、 ませた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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