もちろん、義朝方にも、死傷は多く、屈強の将士五十三騎が討死し、七、八十人が傷
を負った。 まこと、屍山しざん
血河けつが の出現である。 それでも、坂東武者の慣いで、親の屍しかばね
を子が踏み越え、弟の屍を兄が越えて、死に重なり、死に重なっても、競きそ
いかかってくるのだった。 為朝も、いまは味方の敗色を認めないではいられない。 「よし、この上は、指揮する大将の義朝を、おれの矢風で、射い
すくめてやる。喜平次、喜平次。敵の士気が沮喪そそう
したと見たら、すぐ駈け崩せよ」 彼の五指にすら余るほどな、握り太ぶと
の強弓を、ぎりぎりと引き絞った。 「あっ。大丈夫ですか。万一にも・・・・」 「なんの、腕には、覚えがある」 為朝は、兄義朝の、兜かぶと
の星を、狙ったのであった。 かなりの距離だし、黄塵こうじん
や閃戟せんげき のさえぎりもある。為朝は、一とき、呼吸を撓た
めた。 ぶんと、矢は、離れた。──行方を見ていると、かなたなる、ほんの星ぐらいな小ささの ── 義朝の兜の前星を ── 発矢はつし
と射い 削けず
った。そして余勢を持った大きな矢は、宝荘厳院の門の柱に突き刺さった。 義朝は、弟の矢と知って、かっとなった。戦場の中でも、この感情は戦場の外のものだった。彼は、馬の手綱をかい繰く
って、 「八朗八朗」 と叫びながら、幼い時の兄弟喧嘩げんか
みたいに、近づいた。 「── 今のが自慢の弓勢か。なんという粗末な手練よ。あれしきのものが、鎮西第一の弓とは」 「いや、いや。敵とは見ても、本心は、兄者人あにじゃびと
にておわし給うと思うがゆえ、わざと、おん兜の星だけを、射てこそおいた。もしお望みとあるならば、確しか
と二の矢を、番つが え申そうか」 為朝も、むかっとして、次の矢を、箙えびら
から抜きかけた。 義朝の駒脇こまわき
にいた深巣七朗は、その形相を見て、主人の大事と思ったか、大薙刀おおなぎなた
を横に持って、駈け寄りざま、為朝の馬の脚を、払おうとした。 ぐさっと、音がして、彼のいどころから、血と土とが一しょに噴いた。七郎は喉を大矢に射貫かれて、大地へ串刺くしざ
しにされていたのである。 敵味方、相互の大将と大将が、余にも、接近したため、当然、全軍の死闘が賭か
けられ、ここは血漿けつしよう
のつるぼとなった。為朝の股肱ここう
、高間三郎兄弟が、討たれたのも、この場であり、また、手取の与二、鬼田の与三、松浦まつら
の次郎 など、彼が九州以来の幕僚は、ほとんど、枕まくら
を並べて、斬き り死にした。 兵数の差が大きかった。義朝方は、数においても、圧倒的だったし、ことに、武蔵七党といわれる。村山党、児玉党、足立党、豊島党などの諸勢は、先天的に、騎馬戦の上手であった。いかに、超弩級の為朝の弓も、いまは、この頽勢たいせい
をどう支ささ えようもない。
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