〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/13 (水) 兄 ・ 弟 (四)

もちろん、義朝方にも、死傷は多く、屈強の将士五十三騎が討死し、七、八十人が を負った。
まこと、屍山しざん 血河けつが の出現である。
それでも、坂東武者の慣いで、親のしかばね を子が踏み越え、弟の屍を兄が越えて、死に重なり、死に重なっても、きそ いかかってくるのだった。
為朝も、いまは味方の敗色を認めないではいられない。
「よし、この上は、指揮する大将の義朝を、おれの矢風で、 すくめてやる。喜平次、喜平次。敵の士気が沮喪そそう したと見たら、すぐ駈け崩せよ」
彼の五指にすら余るほどな、握りぶと の強弓を、ぎりぎりと引き絞った。
「あっ。大丈夫ですか。万一にも・・・・」
「なんの、腕には、覚えがある」
為朝は、兄義朝の、かぶと の星を、狙ったのであった。
かなりの距離だし、黄塵こうじん閃戟せんげき のさえぎりもある。為朝は、一とき、呼吸を めた。
ぶんと、矢は、離れた。──行方を見ていると、かなたなる、ほんの星ぐらいな小ささの ── 義朝の兜の前星を ── 発矢はつし けず った。そして余勢を持った大きな矢は、宝荘厳院の門の柱に突き刺さった。
義朝は、弟の矢と知って、かっとなった。戦場の中でも、この感情は戦場の外のものだった。彼は、馬の手綱をかい って、
「八朗八朗」
と叫びながら、幼い時の兄弟喧嘩げんか みたいに、近づいた。
「── 今のが自慢の弓勢か。なんという粗末な手練よ。あれしきのものが、鎮西第一の弓とは」
「いや、いや。敵とは見ても、本心は、兄者人あにじゃびと にておわし給うと思うがゆえ、わざと、おん兜の星だけを、射てこそおいた。もしお望みとあるならば、しか と二の矢を、つが え申そうか」
為朝も、むかっとして、次の矢を、えびら から抜きかけた。
義朝の駒脇こまわき にいた深巣七朗は、その形相を見て、主人の大事と思ったか、大薙刀おおなぎなた を横に持って、駈け寄りざま、為朝の馬の脚を、払おうとした。
ぐさっと、音がして、彼のいどころから、血と土とが一しょに噴いた。七郎は喉を大矢に射貫かれて、大地へ串刺くしざ しにされていたのである。
敵味方、相互の大将と大将が、余にも、接近したため、当然、全軍の死闘が けられ、ここは血漿けつしよう のつるぼとなった。為朝の股肱ここう 、高間三郎兄弟が、討たれたのも、この場であり、また、手取の与二、鬼田の与三、松浦まつら の次郎 など、彼が九州以来の幕僚は、ほとんど、まくら を並べて、 り死にした。
兵数の差が大きかった。義朝方は、数においても、圧倒的だったし、ことに、武蔵七党といわれる。村山党、児玉党、足立党、豊島党などの諸勢は、先天的に、騎馬戦の上手であった。いかに、超弩級の為朝の弓も、いまは、この頽勢たいせい をどうささ えようもない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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