宝荘厳院の西裏の戦いは、その日のどこよりも、激烈を極めた。 地形は、長い長い寺院塀
に添っている片側並木。道を隔てて、草原をかかえ、白河の支流が淙々そうそう
とうねっている。野末遠くは、七勝寺の伽藍がらん
堂塔どうとう の森であり、大文字山、如意山などを、うしろにしていた、絶好の野戦場である。 両軍は、ここに入り乱れて、おびただしい血を流し、陽が中天となるも、退かず、陽が傾くも、なお戦った。 為朝は、坂東武者のむらかっている遠いほこりの中に、ときどき、兄義朝の影を、チラチラ見た。義朝は、人並すぐれた体躯たいく
の持ち主であり、源太産衣が、目印めじるし
になるので、よくわかる。 幾たびか、それへ、射心しゃしん
を、向けて、 「いっそ、ひと矢に ──」 と、いう気も、抱かないではなかった。 けれど、ふと、思いもした。 弓矢の家の、こんどのような苦しい立場から、ことによると、父と兄は、何か、ある黙契があるのではないかと。──父は蜀しょく
に仕え、子は呉臣ごしん たりというような例は、漢土の大陸ではあったと聞く、呉が敗れたら、父を恃たの
め、蜀が負けたら、なんじを恃もう。── そういう黙約が、父為義と、兄義朝のあいだに、なかったとも言い切れない。 「いやいや、そんなことは、あろう道理がない。命をかざしいぇ、しのぎを削る、家の子郎党に対しても」 兄ばかりでなく、彼は、敵方の郎党でも、挑いど
みかかって来る武者でなければ、むやみには、箙えびら
の矢を番つが えなかった。 射れば、必ず倒し、倒せば、無残に、一矢で殺すのを、余にも見、余にも信じているからだ。 しかし、義朝の手の者には、為朝の矢さきをすら、ものともしない精鋭が多かった。 斉藤別当実盛さねもり
、金子十郎、片桐小八朗、大庭おおば
平太景義、弟の景親、豊島としまの
四郎、秩父行成ちちぶのゆきなり
など、名乗りかけ、名乗りかけて、駈け巡りあい、いまは、陣地のけじめもなく、乱軍になった。 その中でも、武蔵の住人、斉藤別当実盛、生年三十一 ── という若武者のまえには、手にあう者がなかった。 為朝の腹心の一人、悪七別当すら、実盛のために、首をあげられた。 また、鎌倉五郎が末葉と名乗る大庭景義、景親兄弟のためには為朝の部下、幾人もが討たれた。 すべて、為朝が、恃みとしていた二十九騎の猛兵のうち、二十三人まで斃たお
れ、そのほかの兵も、あらかた傷て
を負った。 |