為朝の手下には、九州以来、ふしぎな異名を持って鳴っている剛の者がたくさんいた。── 箭先払
の九朗家李いえすえ 、隙間数すきまかぞ
えの悪七別当、手取の与二、弟の与三郎、三町礫つぶて
の喜平次、大矢の新三郎、越矢の源太、松浦まつら
の左中次さちゅうじ 、吉田の兵衛、打手うつて
の紀八、同じく四郎、といったような者どもである。 こうした綽名あだな
でもわかるように、平時にあっては郷土の無頼漢、乱に乗じて正規の武器を持てば、風雲の豪傑といったような侠徒逸民きょうといつみん
が、ひとり為朝のいた九州地方ばかりでなく、関東にも、いずこの田舎にも、そのころ、うようよいたものと想像していい。 幾世紀にもわたる地方政治の紊乱ぶんらん
と生態とが、自然に。育てていたものである。 彼らは、打ち物を把と
っても、広野を駆ける豺狼さいろう
の勇を持っていた。 御曹司に続け、と叫ぶ。おくれるなと猛たけ
び合う。鎌田正清と、手勢の百騎ぐらいでは、手ごろな好餌こうじ
であった。たちまち、あなたこなたに、噴血が立つ。刃交はま
ぜの喚おめ きが沸く、組む、伏せる、首をあげる。首をかざして、勝ち名乗りを大呼たいこ
する。 「こは、かなわじ」 と、正清は、逃げ出した。為朝は、見つけて、 「どこまでも」 と、弓をかい挟ばさ
み、大手をひろげて、追いかける。 「御曹司、御曹司。余りな深入りはなされますな」 と、たれか、うしろで言う者がある。為朝は、父の老いを、顧みて、急にあとへ、引っ返した。 遠くで、彼の退くのを見ていた義朝は、にわかに、滝口の俊綱、海老名源八、秦野次郎、須藤刑部丞ぎょうぶのじょう
などの相模さがみ 武者に、下知して、 「為朝は、筑紫育ち、舟戦ふないくさ
の遠矢は、手練であろうが、馬上の技は、坂東武者にかなうはずはない。駆けよよせて、組み落せ」 と、自分も、一緒に、追いかけた。 ── ちょうど、宝荘厳院ほうしょうごんいん
の西裏のあたり。 もう陽ひ
は高く、地上の戦いをよそに、夏木立に、油蝉あぶらぜみ
が鳴きぬいている。 「返せ、返せ」 という声に、為朝は、馬首をめぐらし、近づく敵を、蹴散らした。 わっと、退き崩れる敵のあとに、一騎、なお立ち対むか
っている者があった。 装よそお
いは、大将たることを示している。漆黒しつこく
の馬の背に、鍬形くわがた を打った冑、そして源太げんた
産衣うぶぎ の鎧よろい
を着ていた。いうまでもなく義朝である。為朝の兄である。 「勅命を奉じて、これへ罷まか
り向かったるは、下野守源ノ義朝である。朝威を軽んじて、いたうらに刀舞い演じるそれなる賊は、何者ぞ。もし一家の氏族ならば、すみやかに、陣を解いて、退散せよ。なんじの身の為と思えばこそ、こうは言うぞ」 為朝は、冑の眉ま
びさしから、そういう兄の姿を、まじまじと、遠目に睨にら
んでいたが、聞きもあえず、言い返した。 「どこの何者かとは、こちらから申し上げたい。おれは、おれの父、六条源氏為義殿が、院宣をうけ給うて、お味方の大将軍となられたによって、君を扶たす
け参らせ、かつは、父と生死を一つと誓う恩愛の子ぞや。── おれは、生みの親を忘れて、名利に迷うような、犬ころの子ではない。末子でこそあれ、鎮西八朗為 朝、一陣をうけたまわって、ここにある限り、犬一匹とて、敵と名のつく者は、通すことではない」 「いうたな、八朗」 「おう。いったい、いいたくて、この間じゅうから、むらむら、胸が燃えていたところだ」 「貴様、弟の身をもって、この兄に、弓を引く気か。なお、朝命のなんたるかをわきまえぬか。大義をおもい、人の道を知るならば、弓を伏せて、兄の馬前に詫わ
びてしまえ」 「なるほど、兄に向かって弓を引くのは、悪いかも知れぬ。だが、正しく、院宣を蒙こうむ
っている父に対して、弓を引き給うは、人の子の道か」 |