〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/12 (火) 兄 ・ 弟 (一)

一頭の放れ馬が、寄手の義朝の陣の一角へ、暴れこんで来た。
奔馬は、隊伍たいご の禁物であった。一頭の狂いが、数百頭の馬どもへ、感染して、たちまち、全軍の狂いになるからである。
おさ えろ。抑えろ。手綱を踏め」
歩兵たちは、手を広げ合って、かなたこなたへ追いつめ、やっと、悍馬かんば の口を取り押さえた。そしてふと、くら を見ると、血がたまっているし、尻輪には、見たこともない大きなやじり が立っていた。
「おや、これが鏃だろうか。これを射るほどな弓とは、いったい、どんな強弓だろう」
「さては、八朗御曹司の射られた矢に違いない。後の語り草にもなろうで、そのまま、おん前にひいて来い」
鎌田次郎正清は、義朝の前へ、手綱を引かせて来た。そこでさて、彼は言った。
「御覧ぜよ、この矢じりを。かねて、うわさには聞いていましたが、なんと、いかめしい 弓勢ゆんぜい ではありませぬか」
しかし、義朝は、得心しなかった。苦笑して、むしろ、正清の恐怖を、あわれむように、
「なんの、まだ筋骨きんこつ も固まらぬ為朝に、そんな強弓は引けるわけがない。思うに、わざと、作り事を設け、こけおど しの詭計きけい をかんがえたものだろう。正清、ここの兵を分けて、為朝の陣へ一当て当ててみよ」
鎌田正清は、望むところと、軍兵二百ばかりで、河原門へ せて行った。自身、まっ先に馬を立て、下野守の郎党、相模の住人 ── と、この時代の風習のまま、郷土、家系、職名、姓氏などを、陣頭の礼として、名乗りかけると、かなたの為朝は、
「さてこそ、一 の郎党よな」
と、駈け現れて、
「正清、何しに来た。八朗の矢面に立つ気か」 と、言った。
正清は、威圧を覚えたが、我と我が声を励まして、
「きのうは、主家の御曹司でも、今日のあなたは、八逆はちぎゃく の凶徒です。正清の矢は、勅によるもの。── 者ども、違勅のやから を、討って取れ」
と、一矢を放って、すぐ、味方のうちに、駈けまぎれた。
為朝のかぶと のしころにその矢が立った。為朝は、引き抜いて、地にたたきつけながら、
ざいたな、正清。それほどの男ならば、為朝が、手づかみにして、顔を見覚えておいてやる」
と、いきなり敵兵の中へ駈け込んだ。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next