〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/11 (月)  みず た ま (二)

地鳴りに似た馬蹄ばてい の響きが、清盛のいるまわ りまで崩れたって来た。清盛の駒も、恐怖に、鼻腔びこう をふるわせて、たて髪を振りぬいた。
「なんだ、何か起こったのだ?」
清盛は早口に、左右の部将にきいていた。
味方の動揺のため、もみにもまれて、手綱を操るのさえ、容易でない。すると、駈け近づいて来た者が叫んだ。
「はや、伊藤六が、討たれました。敵の、八郎御曹司の矢にあた ったのです。殿にも、ここらにおられては、彼の的になりましょう。 く疾く、矢ごろの外まで、お退きなされい」
「お。景綱と、伊藤五か。為義の末子ぐらいを、なんでそんなに恐れるのか」
「いや、この矢を、御覧になれば、殿も、驚かずにはおられますまい」
伊藤五は、自分の射向いむけそで (鎧の左袖) に立っている矢を抜いて、清盛の手に示した。
それは、三年竹のふし をみがいた矢柄やがら へ、のみ のようなやじり を付し、山鳥の尾で いだ異様なほど大きな矢であった。
「なるほど、すさまじい矢ではあるよ。鬼神でも射そうな矢だ。兵が恐れ立つのもむりはない」
清盛は、正直に、舌を巻いて感心した。そして、急に、こう言い出した。
「なにも、必ずこの門を攻めよと、仰せつかった清盛でもない。なんとなく寄せてみたまでの場所だ。そうだ、ここが手強てごわ ければ、北門へ向かえ、北門へ」
彼の命令で、一たんここを退却し、方向を変えて、春日表の門へ、向かうことになった。
清盛の嫡子、重盛は、それを聞いて、
「なになに。為朝の弓勢ゆんぜい を避けて、北門へ向かうとや。ばかな。勅命をかざして来ながら、あんのざまよ」
と、左右、二、三十騎の武者と、一団となって、敵の中へ、駆け込もうとした。
清盛はあわてて、あたりの者へ、
「あれを、止めろ。重盛を、連れもどれ、われから為朝の矢に向かうなど、匹夫の勇だ。はや まって、命を落すなど、大ばか者だぞ」
と、あぶない児戯をしかる親の声そのもので怒鳴った。
重盛は、その日、赤地錦あかじにしき の直垂に、沢瀉おもだか おどしの鎧をつけ、えびら には二十四本の矢を負って、その姿は、花々とにお い立って、遠目にも、敵の的になりやすかった。父の清盛は、いくさ なれない愛児を、為朝の矢面やおもて に立たせることは、結果が知れきっているので、ひき止めさせたのであるが、重盛は馬の上で、なおさんざん、だだをこね、父の卑怯ひきょう をいいののし って、泣かんばかりに、口惜しがり、口取りの郎党や、阻める武者たちを、てこずらせた。
このあいだに、重盛の部下の伊賀武者、山田小三郎という剛の者は、
「よし、さらば、御嫡子に代って、小三郎伊行これゆき が矢一つ、筑紫の八朗殿に、こた えて見せん」
と、大言して、急に、見方のうしろから、抜け駆けした。
同僚たちは、うしろから、
烏滸おこ沙汰さた だ。逸まって、後の物笑いになるのはよせ。やめろやめろ」
と、制したが、元来の猪武者いのししむしゃ とみえ、うしろをふり返って、
「人は誘わぬ、人は続かずともよし。おのおのは、ただあかし として、見ておられい」
と、徒士二、三人連れただけで、川の瀬をわた りこえて行った。
為朝は一たん打って出たが、清盛の手勢が退くと見えたので、河原門のうちに入り、門を閉じて、固めていた。
すると、ただ一騎、矢ごろまで来て、
「名乗るほどの者にはあらねど、作法なれば物申す。堀河院の御宇ぎょう 、対馬守義親どの、追討のみぎり、功名をとどろかし、公家にも知られ奉りし、伊賀の平氏山田荘司やまだのしょうじ が孫、小三郎伊行これゆき とは、われぞ、聞き及ぶ、八朗御曹司に、ひと目、会いたい。八朗殿、御姿を、見せたまえ」
と、しきりに、呼ばわりぬいている。
為朝は、門の外へ馬を出して来た。そして、微笑を送った。
「まれに、物好きの飛び出すもの、いくさ の興とか。よくも参ったり。八朗為朝はここにいる。まず御辺ごへん が引き設けて待つ、その一の矢を、われに射試し給え。二の矢は、為朝から進ぜよう」
言葉も終わらぬうちに、小三郎は、為朝の弓手ゆんで草摺くさずり を縫い切った。為朝は、敵が、あわてて二の矢をつがえている様子を見ながら、びゅんと、つる をかえした。── 矢は、小三郎のくら前輪まえわ から、彼のもも を刺し貫いて、尻輪しりわ まで通った。
小三郎は、うつ伏した。ちょうど、鞍のあとさきへ、深股が縫いつけられたかたちだった。そして小三郎の体は、たちまち馬の背から、まっ逆さまに、ころげ落ちた。
徒士かち たちは、駈け寄って、主人の体を肩にかけると、足もつかずに逃げ去った。同時に、主を失って、血に染んだから 馬も、河原のあちこちに、飛沫をあげて、狂奔して行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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