地鳴りに似た馬蹄
の響きが、清盛のいる周まわ りまで崩れたって来た。清盛の駒も、恐怖に、鼻腔びこう
をふるわせて、たて髪を振りぬいた。 「なんだ、何か起こったのだ?」 清盛は早口に、左右の部将にきいていた。 味方の動揺のため、もみにもまれて、手綱を操るのさえ、容易でない。すると、駈け近づいて来た者が叫んだ。 「はや、伊藤六が、討たれました。敵の、八郎御曹司の矢に中あた
ったのです。殿にも、ここらにおられては、彼の的になりましょう。疾と
く疾く、矢ごろの外まで、お退きなされい」 「お。景綱と、伊藤五か。為義の末子ぐらいを、なんでそんなに恐れるのか」 「いや、この矢を、御覧になれば、殿も、驚かずにはおられますまい」 伊藤五は、自分の射向いむけ
の袖そで (鎧の左袖)
に立っている矢を抜いて、清盛の手に示した。 それは、三年竹の節ふし
をみがいた矢柄やがら へ、鑿のみ
のような鏃やじり を付し、山鳥の尾で作は
いだ異様なほど大きな矢であった。 「なるほど、すさまじい矢ではあるよ。鬼神でも射そうな矢だ。兵が恐れ立つのもむりはない」 清盛は、正直に、舌を巻いて感心した。そして、急に、こう言い出した。 「なにも、必ずこの門を攻めよと、仰せつかった清盛でもない。なんとなく寄せてみたまでの場所だ。そうだ、ここが手強てごわ
ければ、北門へ向かえ、北門へ」 彼の命令で、一たんここを退却し、方向を変えて、春日表の門へ、向かうことになった。 清盛の嫡子、重盛は、それを聞いて、 「なになに。為朝の弓勢ゆんぜい
を避けて、北門へ向かうとや。ばかな。勅命をかざして来ながら、あんのざまよ」 と、左右、二、三十騎の武者と、一団となって、敵の中へ、駆け込もうとした。 清盛はあわてて、あたりの者へ、 「あれを、止めろ。重盛を、連れもどれ、われから為朝の矢に向かうなど、匹夫の勇だ。逸はや
まって、命を落すなど、大ばか者だぞ」 と、あぶない児戯をしかる親の声そのもので怒鳴った。 重盛は、その日、赤地錦あかじにしき
の直垂に、沢瀉おもだか おどしの鎧をつけ、箙えびら
には二十四本の矢を負って、その姿は、花々と匂にお
い立って、遠目にも、敵の的になりやすかった。父の清盛は、戦いくさ
なれない愛児を、為朝の矢面やおもて
に立たせることは、結果が知れきっているので、ひき止めさせたのであるが、重盛は馬の上で、なおさんざん、だだをこね、父の卑怯ひきょう
をいい罵ののし って、泣かんばかりに、口惜しがり、口取りの郎党や、阻める武者たちを、てこずらせた。 このあいだに、重盛の部下の伊賀武者、山田小三郎という剛の者は、 「よし、さらば、御嫡子に代って、小三郎伊行これゆき
が矢一つ、筑紫の八朗殿に、応こた
えて見せん」 と、大言して、急に、見方のうしろから、抜け駆けした。 同僚たちは、うしろから、 「烏滸おこ
な沙汰さた だ。逸まって、後の物笑いになるのはよせ。やめろやめろ」 と、制したが、元来の猪武者いのししむしゃ
とみえ、うしろをふり返って、 「人は誘わぬ、人は続かずともよし。おのおのは、ただ証あかし
として、見ておられい」 と、徒士二、三人連れただけで、川の瀬を渉わた
りこえて行った。 為朝は一たん打って出たが、清盛の手勢が退くと見えたので、河原門のうちに入り、門を閉じて、固めていた。 すると、ただ一騎、矢ごろまで来て、 「名乗るほどの者にはあらねど、作法なれば物申す。堀河院の御宇ぎょう
、対馬守義親どの、追討のみぎり、功名をとどろかし、公家にも知られ奉りし、伊賀の平氏山田荘司やまだのしょうじ
が孫、小三郎伊行これゆき とは、われぞ、聞き及ぶ、八朗御曹司に、ひと目、会いたい。八朗殿、御姿を、見せたまえ」 と、しきりに、呼ばわりぬいている。 為朝は、門の外へ馬を出して来た。そして、微笑を送った。 「まれに、物好きの飛び出すもの、軍いくさ
の興とか。よくも参ったり。八朗為朝はここにいる。まず御辺ごへん
が引き設けて待つ、その一の矢を、われに射試し給え。二の矢は、為朝から進ぜよう」 言葉も終わらぬうちに、小三郎は、為朝の弓手ゆんで
の草摺くさずり を縫い切った。為朝は、敵が、あわてて二の矢をつがえている様子を見ながら、びゅんと、弦つる
をかえした。── 矢は、小三郎の鞍くら
の前輪まえわ から、彼の股もも
を刺し貫いて、尻輪しりわ まで通った。 小三郎は、うつ伏した。ちょうど、鞍のあとさきへ、深股が縫いつけられたかたちだった。そして小三郎の体は、たちまち馬の背から、まっ逆さまに、ころげ落ちた。 徒士かち
たちは、駈け寄って、主人の体を肩にかけると、足もつかずに逃げ去った。同時に、主を失って、血に染んだ空から
馬も、河原のあちこちに、飛沫をあげて、狂奔して行った。 |