〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻
2013/03/10 (日)
瀬
(
せ
)
々
(
ぜ
)
の
水
(
みず
)
た ま (一)
霧をへだてた両軍の
喊声
(
かんせい
)
と喊声は、少しずつ、接近してはいたが、しかし、敵の顔が見えるまでには、どっちも、なかなか近づかなかった。
すると、清盛の手勢八百余騎の中から五十騎ほどが、ちぎれ雲のように離れて、こっちへ駆け進んで来た
そして、為朝の守る陣門の正面へ、近々と、寄って来て、
曠
(
はれ
)
の武者姿を、見よがしに、ならべたと思うと、その中からまた、部将らしい三騎が、おどり離れて、
「ここの門を、固め給うは、
誰
(
た
)
ぞ。源氏か平家か、名乗り給え。── かくいうは、安芸守清盛が郎党、伊勢の住人、古市の伊藤景綱」
と、呼ばわった。
また、あとの二騎も、つづいて、
「同じく、伊藤五」
「伊藤六」
と大声で、名乗った。
河原のただ中に出ると、耳に入るのは、瀬の水音ばかりである。よほど声を張らないと、かなたの敵まで届きそうもない。
けれど、すぐ向うから答えて来た言葉は、加茂の川鳴りなど、耳の邪魔にもならないほど、若さと力のみなぎっている声だった。
「やあ、気の毒だが、なんじらの主人、清盛でさえ、不足の相手と思っているところだ。こう広言を払う者は、筑紫育ちの田舎男ではあるが、八幡殿の孫、六条源氏の為義が八男、鎮西八朗為朝ぞ。── 伊勢平氏の
上
(
のぼ
)
り武者などに、与える矢はない。退くがいい。なんじらは退け。清盛に会おう」
「なんの、先陣を承って、むなしく後に退く者があろうか。筑紫の
御曹司
(
おんぞうし
)
と聞けばなおのこと。
下臈
(
げろう
)
の射る矢とて、立つか立たぬか、うけて御覧ぜよ」
と、三人とも、つがえた矢を、一しょに、切って放した。
途端に、為朝の方から射た矢も、ものすごい
唸
(
うな
)
りをひいて飛んで来た。それは、射技になれている武者の耳にも、何が飛んで来たかと疑われるような矢響きだった。
しかも、その矢は、伊藤六の胸を射抜いて、なお伊藤五の
鎧
(
よろい
)
の
袖
(
そで
)
を縫った。
空
(
から
)
馬が跳ね
嘶
(
いなな
)
いたので、ほかの二頭も狂いまわった。それが敵の的になるのを防ぐ為に、うしろの騎兵が一せいに前へ出た。そして、横列になって弓陣を張りならべると、敵の射陣も、弦鳴りをそろえて、いちどに矢風を
酬
(
むく
)
いてくる。
遠矢と遠矢の射戦から、やがて、接近して
斬
(
き
)
り結ぶ白兵戦へと、この時代の戦争のかたちは、大体、二段階に、展開してゆく。
そして、その射戦の初めにも、白兵戦の先頭にも、必ず、両軍の代表的な選手といえる者か、主将が名乗り出て、一騎討ちの晴れの序戦を演じ、それから部下全体の対戦となり、打物の戦いなり、組み打ちの乱闘となるのであった。
敵を組み伏せて、首級をあげる風は、
征夷大将軍
(
せいいたいしょうぐん
)
の兵が、遠く、
陸奥
(
みちのく
)
の
俘囚
(
ふしゅう
)
(アイヌ系の族)
の乱に赴いて、前九年、後三年の役などを征野にすごし、夷域の風習を持って帰ったものだが、それ以後、武門の慣いになったものと言われている。
武器としては、当時まだ、弓、太刀、
薙刀
(
なぎなた
)
、
鉾
(
ほこ
)
ぐらいが、主要武器であったに過ぎない。
槍
(
やり
)
は、太平記の建武二年、三井寺合戦の条に見えるのが、始まりだと、定説みたいにいう人もあるが、奥州合戦注進状などには、
槍疵
(
やりきず
)
という文字も見える。考証の上では、この方が古く、源平時代には、もう使用されていたと見なければならない。しかし、突く、刺す、などという行動は、原始狩猟時代の遺習で、どっちにしろ、そう後代の工夫でないことは明らかである。古代
鉾
(
ほこ
)
は、すでに、片手で突く武器であり、また槍の一使法のように、敵へ向かって、投げたりもした。
いずれにせよ、平安末期、源平初期の頃の、無火器時代の花形は、弓と矢であった。弓は唯一の遠距離武器といえる。従って、百射百中の
弓箭
(
きゅうせん
)
の勇者が、陣前に立つと、大軍もどよめき、騎馬歩兵も、逃げ乱れたのであった。
一冠者にすぎない八朗為朝が、その朝、数においては、はるかに優勢な清盛の軍を駈け崩したのも、時代の戦場が、彼にとって無敵な条件にあったからである。彼の、天性の
臂力
(
ひりょく
)
のみが引き得る
超弩級
(
ちょうどきゅう
)
の強弓は、その矢うなりだけでも、敵兵の荒
ぎも
(
・・
)
をひしぎ、射程内の敵影を、木の葉のように追い散らすに、充分であった。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next