〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/10 (日) 加 茂 川 濁 水 記 (三)

一方、安芸守清盛の率いる八百余騎は、二条河原を、やや上流にまで進み、白河北殿を下流に見て、徐々に、距離をつめつつあった。── それを待って、対するものは、八郎為朝の一陣だった。
まだ夜は明けきれていないし、川霧は深い矢交せも、白兵戦も、開かれないが、両軍とも、その全貌ぜんぼう が、次第に明るく見え渡ってくるにつれて、生命の鼓動と言おうか、恐怖の無意識な叫喚といおうか、おりおりのとき の声を交換する。
うわあっ・・・・と、こっちで武者声をあわせると向こうでも、うわあっ・・・・と応えてくる。それが次第に接近し、また次第に、相互の生命を迫撃しあって来りにつれて、わ、わ、わぁっ・・・・となり。う、う、うをうっ・・・・といったように、何か人間のものでない、原始時代に密林にでも朝夕していたような、異様な咆哮ほうこう に代わっていった。
が、その二つの陣に、わかれて、血を見ぬうちに、血のような叫喊きょうかん をしぼり出して、激しあっている諸声もろごえ のうちには ── もし、冷静な耳をもって聞き分ける者がいたなら ── 耳をおおうて、 かずにいられなかったのではあるまいか。
なぜならば、敵の中にも、自分がいたのである。一たんは、憎んでみても、やがては、憎みきれない自分の分身が ── 父をひとつにし、母を同じゅうし、家をともにし、呱々ここ の声を上げてからの月日をともにし、決定的には、血も一つの者同士が、内裏方にも居、新院方にも居、ただ呼ぶに ── 敵といい、味方といって、二つに、わかれていたのであった。
まことに、保元の乱を書くことは苦しい。その時代から八世紀もへだてた今日においても、そくそくと胸がいた んでくるのである。筆写は、その精彩も描き得ないで、かえって今日の嘆息に落ち入ってしまう。
いくさ そのものは、幼稚であった。戦争を遊戯しているか、芸術しているようですらある。しかい、戦争のかたちや量ではなく、戦争の持つ人間苦の内容は、今も昔もかわりはない。いや、昔のそれを、もっと拡大し、深刻化し、そして科学的進歩の上に、今日の戦争形態としたものが、人間進化の全面ではないが、一面であることは否み得ない。
── と、すれば、かっての古き人間の戦争は、まだ、その稚気、愛すべしとはいえないまでも、人間的とはいえるかもしれない。武器、服装にも、芸術の粋をこらし、陣前では、恥を重んじ、とまれ、精神的な何かを持とうとは心がけた。動物にはなるまいとしていた。
しかし、それにしてすら、保元の乱が、敵と味方との両陣内に、無数の人々を真っ二つに分けて戦わせたあとを見ると ── いかにその戦いが、人間の本性に背いた、むごい、いた ましい、血みどろな一戦であったかがしのばれる。いや思いやられて、画くにも忍びなくなるのである。
次の、主なる人々が、たがいに、攻めあい、さいな みあい、殺しあう、敵味方に分かれていた事を見ても、読者と供に、眼をおおうて、われらの過去に持った歴史の一齣ひとこま に、嗟嘆さたん せずにはいられまいと思う。

【内 裏 方】   【新 院 方】
後 白 河 天 皇 ・・・・・(御兄弟)・・・・・崇 徳 天 皇
関白忠通・・・・・(兄弟)・・・・・左大臣頼長
・・・・・(父子)・・・・・宇治入道忠実
源 義朝 ・・・・・(父子)・・・・・源 為義
・・・・・(兄弟)・・・・・頼賢、為朝など六人
安芸守 清盛・・・・・(叔甥)・・・・・右馬助 忠正
このほか、その妻、その母、その姉妹の良人おつと などを、かぞえたら、いかに自分と自分との戦いだったかが、想像されよう。
しかも、これらはごく首脳者だけの例である。主従なるがゆえに、いやおうなく、ともどもこうした対立の中におかれ、憎み得ない相手を、敷いて憎もうとし、そうしなければ、自分が討たれるというこの修羅しゅら の河原に立たせられた、名もない雑兵たちの心根こそ、思いやられて、あわれである。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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