〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/10 (日) 加 茂 川 濁 水 記 (一)

「敵の夜討ちぞ」
「内裏方の軍勢、すでに、川を越えて、寄せ候うぞ」
こう突然、口々に、騒ぎ出したのは、その夜も四更しこう をすぎ、十二日の明け方ちかい、とら の刻 (午前四時) ごろであった。
殿上たちの、あわて方は、制止しても、とまらなかった。
屋鳴やな りの中の喧騒けんそう や跫音である。敵襲は、すぐ、火攻めを連想させる。頼長は新院のお身を桟敷さじき 殿からお降ろしそて、寝殿と内殿の境に、壁代かべしろ をたて、奥の方を御座所とした。
「為義やわる。忠正やある」
頼長はまた、寝殿の勾欄こうらん に出て、さかんに、諸将の名を呼びたてていた。早口に、何事かを指令したり、注意していたが、そのうちに、
「為朝をよべ、筑紫の八郎を」
と、左右に言った。
為朝が、駆けて来て 「おん前に ──」 と、ひざまづいた。頼長は、ちょっと、間の悪い顔つきだったが、さし迫った急場である。大いに為朝の勇を、励ますつもりであったろう。新院に奏請して、かれを六位の蔵人に叙すべしと、申し渡した。
すると、為朝は、おどり立った。
「何を仰っしゃるかっ。── 為朝が、さきに、申したのは、ここのことです、ここのことです」
地だんを踏みながら、なお、ののし るごとく、辺りへ向かって、
の前に、敵を見ながら、叙位昇官の沙汰さた など、物騒ともあほらしいとも、いいようがない。好む人びとには、何にでもなりたまえ、為朝は、鼻ぐすりの蔵人などと呼ばれても、ありがたくも何ともありません。元のままの、鎮西八郎こそ、身にふさわしく候え」
と、言い捨てて、軍の中へ、 け去った。
官軍 ── 内裏方の第一陣は、下野守義朝の千余騎であった。
川むかいを、二条まで来て、渡りかけたが、おりふし、比叡ひえい から東山までの峰の端に、かすかに、朝陽あさひ しかけていた。
敵を、真東におき、 の光を、真っ向にうけて進んでは不利と気づいたので、義朝は急に、三条河原まで兵を南下させ、そこからわた って、川の東の岸を、ふたたび攻め上がってきた。
そのころの加茂川は、現在のそれよりも、川幅は、倍以上も、広かったに違いない。
そして。白河の水も、瓜生うりゅう の流れも、奔放に、田野や林間を走り、加茂の本流は、幾すじにも裂けて、分かれては合い、合っては分かれ、川床や にも、よし や夏草が生い茂って、文字通り、蕭々しょうしょう たる古代神川かもがわ の面影が、まだあったろうと思われる。
ついでに、現今の京都地図によって、保元戦場の跡を、どの辺かとせんさくしてみると、京大医学部病院の南、春日通りを境とし、丸田町東詰から、平安神宮あたりまでが、白河南殿みなみのとの北殿きたどの のあった地点かと考えられ、また、えびす 川橋から三条大橋のあいだ辺りが、両軍の最初の交戦地とみて、大差はあるまいかと思う。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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