頼長も今、その為朝を思い出した。──
父や兄の持て余し者にになって、十三歳で都を追われ、九州の一族の手もとで成長し、やがて九州の菊池党、原田党などを、みな配下にしてしまい、十七歳の頃までに、合戦にのぞむこと数十度、およそ九ヶ国を攻略して、みずから、筑紫
の総追捕使そうついぶし と称え、官の地方政庁の大宰府だざいふ
を手こずらせたという為朝を ── である。 「そうだ、何と言うか、彼の意見を、訊いてみてやろう」 頼長は、さっそく階下に為朝を呼んで、合戦の策に行いて、腹蔵なく、思うところを述べてみよ、と言った。 為朝は、言下に答えた。 「それは、敵方へ、夜討をかける以外に、勝つ手はありません。こよい一夜でも、なぜ、空しく過ごしているのか、じつは、不審にたえなかったところです」 「あはははは」
頼長は、大いに笑って、 「夜討ぐらいな策なら、だれでも考えつくことだ。先にも、備えはある」 「ありましょうが、内裏の三方から、火を放ち、一方に勢を伏せて、射つつめば、火を逃れんとする者は矢に中あた
り、矢を逃れんとする者は火にかこまれ、お味方は、利のある地勢をとって、戦えるばかりでなく、兵数も少ないのですから、火攻めをもって寡兵の弱みを補強するのが、唯一ゆいつ
の作戦かと思います」 「もし、そちの兄、義朝が打って出たら、どうするか」 「兄の兜かぶと
の真ん中を、一矢射たら、兄も逃げ出すにちがいありません」 「安芸守清盛も、一手をかためているが」 「清盛などがヘロヘロ矢は、踏み払って通るだけのものです。炎の下をくぐり、主上に近づき参らせて、御座所をこちらへお迎え申し奉れば、清盛や義朝が、いかに猛たけ
ろうと、戦いくさ の意味はなくなりましょう。機は、今です。今夜のうちです、夜の白まぬうちにこそ」 と、為朝はしきりに、夜討をすすめ、頼長の決断をうながした。 けれど、頼長の胸には、奈良の援軍が、いつ着くか、その計算の方が、重点になっている。宇治の父
──忠実入道の早打ちも、昼からいくたびとなく、とどいていた。それによれば、興福寺の玄実げんじつ
の法師勢八百と、吉野、十津河とつかわ
の僧兵をあわせた二千余人が、今夜ごろには、宇治へ着き、おそくも、あすの午まえには、都に討ち入るであろうと、ある。 ── で、頼長は、為朝の言葉が終わると、 「いや、なかなか、勇ましい意見ではある」
と、苦笑しながら、うなずいた。 「しかし、夜討などという小策は、そちたちが十騎二十騎でやる私闘の時なら知らぬこと、かかる大戦には、めったに功を奏するものではない。──
九州では、さすが、為朝の名も、振るったのだろうが、このたびの一戦は、天皇上皇の御国争いであり、源平両陣、数をつくして双方に拠よ
り、勝負を乾坤けんこん の一擲いってき
に決せんとするものである。── さような、若気な考えは、役にも立たぬ」 人に意見を求めながら、結果では、人に意見を聞かせてしまう。頼長の性癖である。 為朝は、むっつりして、自陣へ帰った。 そして楯たて
の上に身を横たえ、四更しこう
の星影を抱いて眠ってしまった。 |