頼長は、新院のおそばに、付ききりで侍座していた。 だが、身を殿上においても、もちまえの才略が、うずいて堪らないらしく、 「敵の陣気はまだ動いてはいない。川を越えて来れば、みずから、隊伍
をみだし、兵を労つか らして来るようなものだ」 と、言ったり、 「正面の諸門より、敵の来そうもない搦から
め手に、油断をするな。黒谷、神楽ケ岡、蓮華蔵院のあたりも、見張りの兵は立たせてあるか」 と、気をつかったり、また、 「合戦にも、序じょ
、破は 、急きゅう
がある。いまは序だ。戦いに入らぬ間には、よろしく居眠るほどな、余裕を持て、兵にも交互に眠りを与え、諸卿も、かわるがわる手枕で、眠っておくがよい」 などと布令ふれ
させたりした。 そのくせ、彼自身は、眠るどころではない。夜が更けるほど、冴さ
えきった神経を顔に見せ、ついには、自身、営内を見まわった。 配備を、見て行くと。 表の大路にむかって、大きな門が二つある。 東の門は、粟田山のすそ近く、岡崎道へ通じ、これに、右馬助忠正と、家の子郎党の約三百騎、わき備えに、多田蔵人の百余騎が、固かた
めていた。 また、西の門は、加茂河原に寄っていて、ここの守りは、六条為義父子である。麾下きか
、およそ三百騎。 また、一子為朝は、べつに百余騎をひっさげて、西河原門を、扼やく
していた。ここは、河原に面している雑用門で、墻かき
も建物も、粗末だった。防塁として拠よ
るには危険の多い所なのを、すすんで為朝が、引き受けたものであった。 北の春日かすが
表おもて の口は、左衛門大夫家弘父子の手勢が固め、武者数、二百余り。 ──
こう見て来て、頼長は、一抹いちまつ
のさびしさと、不満を覚えずにいられなかった。彼が、当初の考えでは、少なくも数千騎の味方は集まるものと確信していた。ところが実際には、千六、七百騎しか寄らなかったのである。それが新院方の総数だった。 けれど、為義父子の参加は、昨日から、味方に百万の強味を加えた。軍紀も際きわ
だってよくなっている。 わけて、鎮西八朗為朝ためとも
が、九州以来の、二十八騎の荒武者をしたがえ、父について入陣したのは、いやが上にも、士気を振わせた。それほど、彼の勇名は聞こえていた。 まだ十八の小こ
冠者かじゃ ながら、背は六尺もあるという。紺地に、獅子しし
の丸の直垂を下に着、白い唐織からおり
おどしの大荒目な鎧、熊くま の皮の尻鞘しりざや
に入れた大太刀を横たえ、冑かぶと
は、郎党に持たせて ── ここへ参入したときは、他家の武者も、殿上の公卿たちも、為義やそのほかの子息には眼もくれず、 (為朝とは、どんな冠者か) (あれが、有名な筑紫の為朝か) と、背伸びをし合って、彼一人に、視線を集め、彼の噂で、持ちきった程であった。 |