〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/09 (土) ため  とも (一)

頼長は、新院のおそばに、付ききりで侍座していた。
だが、身を殿上においても、もちまえの才略が、うずいて堪らないらしく、
「敵の陣気はまだ動いてはいない。川を越えて来れば、みずから、隊伍たいご をみだし、兵をつか らして来るようなものだ」
と、言ったり、
「正面の諸門より、敵の来そうもないから め手に、油断をするな。黒谷、神楽ケ岡、蓮華蔵院のあたりも、見張りの兵は立たせてあるか」
と、気をつかったり、また、
「合戦にも、じょきゅう がある。いまは序だ。戦いに入らぬ間には、よろしく居眠るほどな、余裕を持て、兵にも交互に眠りを与え、諸卿も、かわるがわる手枕で、眠っておくがよい」
などと布令ふれ させたりした。
そのくせ、彼自身は、眠るどころではない。夜が更けるほど、 えきった神経を顔に見せ、ついには、自身、営内を見まわった。
配備を、見て行くと。
表の大路にむかって、大きな門が二つある。
東の門は、粟田山のすそ近く、岡崎道へ通じ、これに、右馬助忠正と、家の子郎党の約三百騎、わき備えに、多田蔵人の百余騎が、かた めていた。
また、西の門は、加茂河原に寄っていて、ここの守りは、六条為義父子である。麾下きか 、およそ三百騎。
また、一子為朝は、べつに百余騎をひっさげて、西河原門を、やく していた。ここは、河原に面している雑用門で、かき も建物も、粗末だった。防塁として るには危険の多い所なのを、すすんで為朝が、引き受けたものであった。
北の春日かすが おもて の口は、左衛門大夫家弘父子の手勢が固め、武者数、二百余り。
── こう見て来て、頼長は、一抹いちまつ のさびしさと、不満を覚えずにいられなかった。彼が、当初の考えでは、少なくも数千騎の味方は集まるものと確信していた。ところが実際には、千六、七百騎しか寄らなかったのである。それが新院方の総数だった。
けれど、為義父子の参加は、昨日から、味方に百万の強味を加えた。軍紀もきわ だってよくなっている。
わけて、鎮西八朗為朝ためとも が、九州以来の、二十八騎の荒武者をしたがえ、父について入陣したのは、いやが上にも、士気を振わせた。それほど、彼の勇名は聞こえていた。
まだ十八の 冠者かじゃ ながら、背は六尺もあるという。紺地に、獅子しし の丸の直垂を下に着、白い唐織からおり おどしの大荒目な鎧、くま の皮の尻鞘しりざや に入れた大太刀を横たえ、かぶと は、郎党に持たせて ── ここへ参入したときは、他家の武者も、殿上の公卿たちも、為義やそのほかの子息には眼もくれず、
(為朝とは、どんな冠者か)
(あれが、有名な筑紫の為朝か)
と、背伸びをし合って、彼一人に、視線を集め、彼の噂で、持ちきった程であった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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