公卿たちは、着るすべも知らないので、みな当惑した。わけて七月の酷暑である。身動きもつかない。先に着込んだ頼長がいい見本で、もう大汗になっていた。武士のようには着こなしもつかず、いかにも、ぎこちなく見える。 殿上のお味方人は、たれたれかというに。 ──
近江中将成雅、左京大夫教長、四位少納言成隆、山城前司頼資、美濃前司康成、備後守俊通
、皇后宮権大夫師光もろみつ 、右馬権頭実清、式部大輔盛憲もりのり
、蔵人大夫経憲、皇宮宮亮憲親、能登守家長、信濃守行通つらみち
、左衛門佐宗康、勘解由かげゆ
次官助憲、桃園蔵人頼綱、下野判官正弘、その子左衛門大夫家弘、右衛門大夫頼弘、大炊助おおいのすけ
度弘、右兵衛尉時弘、文章生もんじょうしょう
安弘、中宮侍長光弘 ── など、きら星ともいえる顔ぶれが、このほかにも、居ながれていた。 けれど。頼長の命令となると、たれひとり、反対を言えないのである。 すると、もっとも末席に居た、文章生の安弘やすひろ
が、 「おそれながら」 と、頼長の姿を、はるかに見て、いい出した。 「── わたくしどもは、さして問題でもありませんが、上皇にまで、おん鎧を召せと、強い奉るのは、いかがなものでしょうか」 人びとは、はっと、白け渡った。新院もお顔色を変えられた。頼長は、なおさらである。 文章生といえば、観学院の特待生で、朝廷から学問料をもらい、氏の長者からは、格別な庇護ひご
を受けている公卿書生でしかない。それは秀才試験に及第している有数な若人にちがいないが、若年のくせに、何をいうかと、頼長の眼差しは、怒っていた。 安弘は、はるか末座なので、その眼を、感じないのか、言葉涼しく言い続けた。 「わたくしの知る限りでは、古代や神武の東征は知らず、歴代、皇化の民のあいだにあって、天皇が、甲冑を召されたことなど、聞いたこともありません。武勇、覇力はりょく
をもって、帝座にのぞんだのは、漢土の帝王です。九重のわがすめらみことは、仁愛をもって、おん姿となし、かりそめにも、玉体を、具足で鎧よろ
うたりしたようなことは、前例にも、絵像えすがた
にも、拝したことがありませんが」 一若輩の発言だったが、人びとはみな、 「もっともである」 と、いう風に、うなずいた。 中将成雅なりまさ
も、皇后宮権大夫師光もろみつ
も、それに力を得て、彼の説を支持した。 ── で結局、新院は、うす絹の衫衣さん
に、水干袴すいかんばかま のままで鎧はお召しにならなかった。 頼長も実は、苦しかったので、大鎧を脱ぎ、腹巻はらまき
(鎧胴よろいどう
) だけになった。他の公卿も、狩衣、直衣のうし
、水干袴など、思い思いな服装のうえに、腹巻だけは、武者と同じようにした。半武装のかっこうである。戦闘のためではなく、流れ矢の用心に過ぎない。 しかしこの中でも、左京大夫教長は、前述のように、為義父子を説いて、新院のお味方に誘い、その直後に出家してしまったので、彼だけは、半武装もしなかったただ一人の例外といえる。 |