〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻

2013/03/09 (土) よろい さわ ぎ の 事 (一)

東山連峰のひとつ、大文字山のふもと から、加茂川へかけての間に、白河天皇のころの、旧離宮がある。
久しいこと住むお方もなく、附近の法勝寺や尊勝寺などの、六大寺がもつ幽邃 ゆうすい な寺領にも接しているため、その広大な空閑地は、ほとんど自然化されて、日ごろはほう 数町にわたる築土 ついじ の外に立っても、怪鳥 けちょう の羽ばたきや、遠い林泉のひびきのはかは、耳にふれてくるものはない。
ところが、数日前から、ここの北殿 きたどの ── 南殿 みなみのとの の西北の一郭 ── に、新院方のお味方と称する軍兵がたてこもって、さかんに気勢をあげ、時には鼓噪こそう して、赤旗白旗を、四門ばかりでなく、木の梢にまで、高々と見せていた。
たれが指令し、たれがここの使用を許可したのかも、分かっていない。旗を目当てに、後から後から、混み入って来たまでのことらしい。諸家の軍勢を見ても、装備、服装など、じつに雑多である。第一、平氏の言葉に、統一がない。坂東ばんどう なまりがあるし、美濃みの 尾張おわり あたりの方言も、横行している。と、思うと山陰弁も じってい、木曾ことばも、たくさんいる。
だが、大体、言っていることは、一致していて、
「年ごろ、もろもろの合戦に、 けはとらなかったが、まだ、都のうちで、弓を試みたことはない」
「げに、千載一遇というもの」
「そうだ、この風雲に、ひと手柄あげねば」
などと、気負い合っていた。要するに “一旗組” や “われこそ組” でないものはない。
常に、何かの乱を待っている人間が、世間には、こんなにも多いのだろうか、と驚かれる。それらの徒が、頼長の招きに応え、また、招かれない者まで、頼長の大野望に、おのおの、小野望を託して、にらがり寄って来たものだろう。
新院 (崇徳上皇) は、加茂の斎宮いつきのみや におられたが、頼長が、宇治から間道を抜けて、到着すると、頼長以下の群臣を召し連れて、やがて、白河北殿へうつ られた。
御座所を、北殿のうちの桟敷ざしき 殿 (楼づくりの高殿) と定め、頼長は、右馬助忠正をよんで、
「すでに、新院おん自ら、陣中にお臨みになっているのに、余りに諸軍の手勢手勢が、騒々しいではないか。よく、部署をわかち、軍律をかかげ、まず陣の秩序をたてよ」
と、いいつけた。
この日から、幾ぶん静粛せいしゅく にはなった。これが十日のひる であり、源ノ為義が、子息六人と族党二百余騎を連れて参加したのは、翌十一日の夜半であった。
「── 為義が参りました」
と言うのを聞かれて、新院は、おんまゆ をひらいた。頼長の満悦まんえつ は、いうまでもない。
六人の子息を従えて、為義は、階下にひざまづき、えつ をたまわったが、心なしか、為義の面には、老いの影が目立って、りんりんたる生気もなかった。
でも、新院は、御感ななめならず、当座の恩賞として、美濃の青柳ノ庄、近江の伊庭ノ庄、二ヶ所の荘園を、為義に賜った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next